ヴィム・ヴェンダース
[Wikipedia|▼Menu]
ギムナジウム卒業後、大学では1963年から1964年まで医学を、1964年から1965年まで哲学を専攻したが、いずれも断念した。1966年10月に画家を志してパリへ引っ越した。しかし、高等映画学院 (IDHEC) の入試に失敗。その後、モンパルナスにあるJohnny Friedlaenderのスタジオで彫刻を学んだ。この頃、1日5本以上もの映画を観る生活を送っていた。旧作を上映する「シネマテーク・フランセーズ」の常連になり黒澤明監督作品など1千本以上の名作を鑑賞した[1]1967年ユナイテッド・アーティスツのデュッセルドルフ・オフィスで働くためにドイツに帰国。同年秋にはミュンヘンテレビ・映画大学 (Hochschule fur Fernsehen und Film Munchen, HFF) に入学。1970年まで『FilmKritik』誌や『南ドイツ新聞』、『Twen magazine』誌、『デア・シュピーゲル』誌で映画批評を執筆した。また、1967年からは映画監督としての活動を開始し、1969年までの3年間で『警察映画』(1969年)や『アラバマ:2000光年』(1969年)、『3枚のアメリカのLP』(1969年)など8本の短編映画を製作した。

1970年に16ミリモノクロで撮った『都市の夏』で長編映画監督デビューを果たす。1972年、友人でもあるペーター・ハントケの同名小説を映画化した『ゴールキーパーの不安』で第32回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけるようになる。アメリカからオランダへと旅する青年と少女を描いた『都会のアリス』(1974年)、戦後ドイツを表象した『まわり道』(1975年)、『さすらい』(1976年)の「ロードムービー三部作」を監督したことでフォルカー・シュレンドルフヴェルナー・ヘルツォークライナー・ヴェルナー・ファスビンダーらとともにニュー・ジャーマン・シネマの旗手として一躍注目されるようになった。特に『さすらい』はカンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞。1977年の『アメリカの友人』では、それまでのロードムービーから一転し、パトリシア・ハイスミスの原作を元にサスペンス映画を監督。アメリカの俳優であるデニス・ホッパーを招聘した。

1982年の『ハメット』では、フランシス・フォード・コッポラの依頼を受け、ゾエトロープ社製作で監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断されると、この期間にポルトガルにて映画製作の現場を舞台にした『ことの次第』を製作。同作は第39回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。1984年サム・シェパードの脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『パリ、テキサス』が第37回カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。翌1985年ドキュメンタリー東京画』では敬愛する小津安二郎に捧げた。1987年、10年ぶりにドイツで製作したファンタジーベルリン・天使の詩』で第40回カンヌ国際映画祭にて監督賞を受賞。1989年にはファッションデザイナー山本耀司に関するドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』を発表した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef