1970年に16ミリ・モノクロで撮った『都市の夏』で長編映画監督デビューを果たす。1972年、友人でもあるペーター・ハントケの同名小説を映画化した『ゴールキーパーの不安』で第32回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。以後もハントケはヴェンダースのいくつかの作品の脚本を手がけるようになる。アメリカからオランダへと旅する青年と少女を描いた『都会のアリス』(1974年)、戦後ドイツを表象した『まわり道』(1975年)、『さすらい』(1976年)の「ロードムービー三部作」を監督したことでフォルカー・シュレンドルフやヴェルナー・ヘルツォーク、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーらとともにニュー・ジャーマン・シネマの旗手として一躍注目されるようになった。特に『さすらい』はカンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞、シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞などを受賞。1977年の『アメリカの友人』では、それまでのロードムービーから一転し、パトリシア・ハイスミスの原作を元にサスペンス映画を監督。アメリカの俳優であるデニス・ホッパーを招聘した。
1982年の『ハメット』では、フランシス・フォード・コッポラの依頼を受け、ゾエトロープ社製作で監督を務めた。しかし、製作方針をめぐりコッポラと衝突。撮影は何度も中断されると、この期間にポルトガルにて映画製作の現場を舞台にした『ことの次第』を製作。同作は第39回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。1984年、サム・シェパードの脚本を元に、アメリカを舞台にしたロードムービー『パリ、テキサス』が第37回カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。翌1985年のドキュメンタリー『東京画』では敬愛する小津安二郎に捧げた。1987年、10年ぶりにドイツで製作したファンタジー『ベルリン・天使の詩』で第40回カンヌ国際映画祭にて監督賞を受賞。1989年にはファッションデザイナー山本耀司に関するドキュメンタリー『都市とモードのビデオノート』を発表した。