ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
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ヴィットーリオは当時のヨーロッパ人としてはかなり小柄な体格で知られており、国民の平均身長を大きく下回る153cm程度であったという[1]。ちなみに甥のアオスタ公アメデーオは198cmであったため、大柄な風貌で知られたこの甥と対照的な、サヴォイア家の中でも「低い背丈の当主」として知られていた。ヴィットーリオもこのことにコンプレックスを感じており、反動から周囲に対して無愛想な気難しい性格に育った。この体格には母マルゲリータが病弱であった事に加え、祖父母と両親が共にサヴォイア家の同族で二代続けて従兄妹婚を通じた血統である事が影響した可能性もある。

ナポリ公の授爵だけでなく、幼少期をイタリア北部や中部ではなく南部で過ごしており、士官学校に進む際にも旧サルデーニャ王国が設立したトリノ陸軍士官学校(現モデナ陸軍士官学校ではなく、旧ナポリ王国時代からの歴史を持つヌンツィアテッラ陸軍士官学校(イタリア語版、英語版)で学んでいる。父ウンベルト1世は統一後もピエモンテ式に馴染めない南イタリアの臣民とサヴォイア家との信頼構築を息子に託していた。1896年10月24日、25歳の時に近隣国モンテネグロ王国の第五王女イェレナ・ペトロヴィチ=ニェゴシュと結婚した。結婚に際して、イェレナはモンテネグロ正教会からローマ・カトリック改宗しており、夫婦仲も良好で跡継ぎのウンベルト2世を含む1男4女を儲けた。
統治初期モンテネグロ国王ニコラ1世(左)と(1914年)

1900年7月29日、父ウンベルト1世が無政府主義者によって暗殺(イタリア語版)され、30歳で祖父の名を引き継いでヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III di Savoia)として即位する事となり、王太子妃であったイェレナもイタリア王妃エレナとなった。ウンベルト1世は遺言として「覚えておけ、王に必要なことはどのように馬に乗り、新聞を読み、署名を行うかということだけだ」と言い残したという。君臨すれども統治せずという立憲君主としての精神を説いた遺言に従い、青年期は政治的な事柄に関わることを積極的に避けていたと言われている。また父が無政府主義者に暗殺された事実を受け止めた上で、自由主義的な憲法の制定に前向きな姿勢を見せるなど、穏健な君主として振舞った。議会運営では老獪な政治家であるジョヴァンニ・ジョリッティを重用し、幾度も首相職を務めさせている。

しかし建国以来、イタリア国王は議会に対して解散権や組閣権など極めて強力な権限を持ち、その気になれば何時でも親政を行える余地を残していた。加えてヴィットーリオ・エマヌエーレ自身も1900年から1922年にかけての政治の不安定化を前に、議会政治に次第に強い反感を抱いていくようになり、後年の強権的な君主としての部分を現し始めていった。
第一次世界大戦フランスのジョゼフ・ジョフル元帥と協商国の前線を視察するヴィットーリオ・エマヌエーレ3世。1916年

サラエボ事件オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺され、第一次世界大戦が勃発した。しかし未回収のイタリア問題でオーストリアと関係が悪化していたことなどから、イタリアは参戦を見送って局外中立を宣言した。1915年以降に連合国から盛んに参戦を働きかけられると、国内や議会では参戦派と中立派に分かれて議論が巻き起こった。参戦派のサランドラ政権は未回収のイタリアを奪還する最大の好機と主張したが、国民の多くはオーストリア側に立って参戦しなかったことを不義理と考える向きがあり、また経済的に負担になるとの考えから反対派が主流であった。

論争の末にサランドラ首相の解任を議会が議決した際、ヴィットーリオ・エマヌエーレは議会決定を拒絶した。イタリアで国王が明確に政治介入を決定した最初の事例であるこの事件の後、イタリアは第一次世界大戦に参戦して(イタリア戦線)、伊墺国境の山岳地帯で激しい戦いを繰り広げることになった。戦争後半、オーストリアの脱落を恐れたドイツの参戦(カポレットの戦い)によって多くの死傷者が発生すると、中立派の政治家は国王を批判したが、国王は反論するよりも自ら前線を訪問して兵士達を激励する方を選んだ。国王の献身的な行為は民衆や兵士の支持を集め、カポレットの戦いの後に新たにアルマンド・ディアズ将軍とヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相が国家指導を行ったことで最終的に連合国側が勝利を収めたことと相まって、その治世で最も深い尊敬を獲得した。
ファシズム訪欧中の皇太子裕仁親王を出迎えるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世。1921年式典に出席するベニート・ムッソリーニとエマヌエーレ3世。1928年「ファシズム時代のイタリア(イタリア語版、英語版)」も参照

第一次世界大戦で払った人的犠牲の結果、イタリアは南チロルイストリアの回収に成功した。これは確かな収穫だったが、民族主義者はダルマチアなどの獲得がならなかったことに不満を抱き、また対価として失った人員と経済的負担は民衆にとって余りに重いものだった。労働者による暴動やストが各地で発生し、社会全体が不安定化していった。そんな中、復員兵や貴族からなる民族主義・国粋主義政党「ファシスト党」が地方で勢いを得つつあった。既に反動的な君主として行動することに躊躇のなかったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、革命に対抗するため、このファシスト党の指導者ベニート・ムッソリーニに様々な協力を行うことにした。

1922年8月、ムッソリーニが武装したファシスト党の党員を引き連れて、首都ローマの占領を目指した進軍を開始(ローマ進軍)、ファクタ政権は戒厳令を発動して沈静化に当たろうとした。国王は軍事的な鎮圧は不可能として、戒厳令に拒否権を行使した。立場を失ったファクタ政権は崩壊し、首都を掌握したムッソリーニは国王の認可を得て新たな政権を組閣した。国王が軍事的な鎮圧を不可能としたことについては、多くの面で不自然であると見られている。事実、参謀総長を務めていたバドリオ元帥は積極的に軍事攻撃を主張して、烏合の衆に過ぎない民兵隊は容易に排除できると進言している。軍も国王に対して忠実で、ファシスト党の側でもローマ進軍が成功すると見ていた人物は少数派であった。権限を得たファシスト政権は程なく独裁的な政治を開始して、敵対する政治家の暗殺すら行ったが、国王はファシスト党の独裁を全く黙認した。

後に自伝でヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、内戦の危機を避けるにはファシスト党を用いるより仕方無かったと釈明したが、実際にはサランドラ元首相やアルマンド・ディアズ元帥ら軍・政府の保守派からの助言に基づいて、積極的にファシスト党の政策を後押ししていたと言われている。動機や状況がどうであれ、国王の行動はイタリアの民主制を決定的に否定する結末を生んだ。政治的指導の成否以前に、民主主義を冒涜したと後世で批判される所以でもある。一方で、ファシスト党は王が望んだように政治的安定と革命勢力の退潮をもたらしたのも事実である。無政府主義・共産主義革命が導く恐ろしい末路は、既にロシア革命と第一次世界大戦で示されていた。貴族や資本家にとって支援にたる政治的成果を挙げられる存在は、ファシスト政権のみであったのである。

1929年、ムッソリーニは国王代理としてラテラノ条約に署名した。これにより、教皇庁とサヴォイア家との長年の対立に終止符が打たれた。
第二次世界大戦

1938年3月30日、イタリア議会はムッソリーニとヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の双方に第一元帥の称号を授与した。これは形式上、軍の最高指揮権を意味した。国王の後ろ盾で軍を指導下に置いたムッソリーニは、経済政策の破綻もあって侵略戦争に突き進み、アルバニアエチオピアを併合した。両国の王位・帝位(アルバニア王、エチオピア皇帝)はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に委ねられ、それぞれの戴冠式が執り行われた。国王でありながら皇帝という地位は、イギリス王がインド皇帝を兼位していた事例を除けば珍しかった。華やかな称号の反面、ファシスト党の侵略政策がイタリア王家に支持されているという側面が強く打ち出された。人種法などナチスと同じく人種主義が政策に反映されても、国王のファシスト政権への支持は変わらなかった。

ムッソリーニの侵略政策は、第二次世界大戦にいまだ軍備が整わない状況下で参戦するという最悪の選択肢に至った。無策な戦争指導の結果としてリビア東アフリカを失い、遂にはシチリア島にまで連合軍が迫る状態に追い込まれた。日に日に悪化する戦局にファシスト政権はもちろん、国王に対する反感も高まっていった。民衆の間では「質素な珈琲は香り高かった。しかし皇帝になって香りは薄れ、アルバニアを欲した時には香りは消えた」と国王を揶揄する歌が流行した。1943年、首都ローマへの爆撃が開始された。
クーデターと引退「イタリアの降伏」も参照

1943年7月24日、ディーノ・グランディ伯爵がムッソリーニの解任決議を提出すると、王国大評議会(国会)は圧倒的多数でこれを可決した。謁見に訪れたムッソリーニにヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は冷淡な態度で接し、クーデター派による彼の解任と軟禁を後押しした。また新たな首相にバドリオ元帥を指名すると共に、アルバニア王とエチオピア皇帝の地位からの退位を宣言した。

とはいえ依然として国王とバドリオは戦争継続の意思は残し、前線で戦闘を続けさせながら水面下で連合国と休戦交渉に入った。しかし、1943年9月8日に双方の手違いから、アメリカ政府は一方的にイタリアが無条件降伏したと宣言、同時に国王は南部のブリンディシに国民を見捨てて逃亡してしまったため、軍の指揮系統は完全に麻痺してしまった。


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