ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
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儀礼称号にエルサレム王、キリキア・ アルメニア王、聖アヌンツィアータ騎士団総長、聖マウリッツィオ・ラザロ騎士団総長、ガーター騎士団団員、マルタ騎士団団員、金羊毛騎士団団員がある。

イタリア王国の君主として大権を揮い、46年間という長期間の在位を通じてサヴォイア家の歴代当主の中でも特筆すべき治世を遺した。第一次世界大戦第二次世界大戦の双方で主要参戦国の国家指導者として影響を与え、後者に関してはファシズム運動を率いるベニート・ムッソリーニによる全体主義体制とも密接な協力関係を構築した。イタリア国王以外にエチオピア皇帝、アルバニア国王、モンテネグロ国王、クロアチア国王などの王位称号をサヴォイア家の権利とし、イタリア植民地帝国の版図を最も拡大したが、第二次世界大戦後半にムッソリーニを放逐し、戦後処理で王政が廃止されたことからエジプト王国へ亡命した。
生涯
生い立ち王太子時代の写真

1869年11月11日、第2代イタリア王ウンベルト1世とその妃であるジェノヴァ公女マルゲリータの第一王子としてナポリの王領で生まれ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・ジェンナーロ・ディ・サヴォイア(Vittorio Emanuele Ferdinando Maria Gennaro di Savoia)と名付けられた。父から初代国王である祖父ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名を冠したヴィットーリオ・エマヌエーレの名を与えられ、王太子称号としてはサヴォイア家が伝統的に法定推定相続人爵位としてきたピエモンテ公ではなく、新設されたナポリ公(Principe di Napoli)に授爵された。イタリア統一(リソルジメント)の大義を強調する意味合いがあったものと推測されている。

ヴィットーリオは当時のヨーロッパ人としてはかなり小柄な体格で知られており、国民の平均身長を大きく下回る153cm程度であったという[1]。ちなみに甥のアオスタ公アメデーオは198cmであったため、大柄な風貌で知られたこの甥と対照的な、サヴォイア家の中でも「低い背丈の当主」として知られていた。ヴィットーリオもこのことにコンプレックスを感じており、反動から周囲に対して無愛想な気難しい性格に育った。この体格には母マルゲリータが病弱であった事に加え、祖父母と両親が共にサヴォイア家の同族で二代続けて従兄妹婚を通じた血統である事が影響した可能性もある。

ナポリ公の授爵だけでなく、幼少期をイタリア北部や中部ではなく南部で過ごしており、士官学校に進む際にも旧サルデーニャ王国が設立したトリノ陸軍士官学校(現モデナ陸軍士官学校ではなく、旧ナポリ王国時代からの歴史を持つヌンツィアテッラ陸軍士官学校(イタリア語版、英語版)で学んでいる。父ウンベルト1世は統一後もピエモンテ式に馴染めない南イタリアの臣民とサヴォイア家との信頼構築を息子に託していた。1896年10月24日、25歳の時に近隣国モンテネグロ王国の第五王女イェレナ・ペトロヴィチ=ニェゴシュと結婚した。結婚に際して、イェレナはモンテネグロ正教会からローマ・カトリック改宗しており、夫婦仲も良好で跡継ぎのウンベルト2世を含む1男4女を儲けた。
統治初期モンテネグロ国王ニコラ1世(左)と(1914年)

1900年7月29日、父ウンベルト1世が無政府主義者によって暗殺(イタリア語版)され、30歳で祖父の名を引き継いでヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III di Savoia)として即位する事となり、王太子妃であったイェレナもイタリア王妃エレナとなった。ウンベルト1世は遺言として「覚えておけ、王に必要なことはどのように馬に乗り、新聞を読み、署名を行うかということだけだ」と言い残したという。君臨すれども統治せずという立憲君主としての精神を説いた遺言に従い、青年期は政治的な事柄に関わることを積極的に避けていたと言われている。また父が無政府主義者に暗殺された事実を受け止めた上で、自由主義的な憲法の制定に前向きな姿勢を見せるなど、穏健な君主として振舞った。議会運営では老獪な政治家であるジョヴァンニ・ジョリッティを重用し、幾度も首相職を務めさせている。


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