ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は統一イタリアの象徴として国民から敬愛され、王の頭文字 "VERDI"(Vittorio Emanuele Re d'Italia, ヴィットーリオ・エマヌエーレ・レ・ディタリャ、 イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ)と呼ばれた。同時代のイタリア・ロマン派の音楽家ジュゼッペ・ヴェルディの名前とも合致したことから、統一戦争の頃には両者を讃えて「"viva! verdi!"」の言葉がイタリア全土で流行した。
生涯
生い立ち「サヴォイア=カリニャーノ家」も参照

1820年3月14日、サヴォイア王国の首都トリノにおいて、王家であるサヴォイア家の一族として生まれた。ヴィットーリオの父カルロ・アルベルトは、サヴォイア家支流でカリニャーノ公トンマーゾ・フランチェスコを祖とするサヴォイア=カリニャーノ家の当主であった。

サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の息子たちは男子に恵まれず、カルロ・エマヌエーレ4世ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世、そして末弟カルロ・フェリーチェ、と兄弟間で王位が継承された末、サヴォイア本家は断絶した。そこで、サリカ法を採るサヴォイア家の継承法に基づき、存続していた分家で最も本家と近かったサヴォイア=カリニャーノ家のカルロ・アルベルトがサルデーニャ王となった。同時に、まだ幼少であったヴィットーリオと弟アルベルトは王子の称号を与えられ、王宮や母方の祖父であるトスカーナ大公フェルディナンド3世の下で子供時代を過ごした。

1842年、父方の叔母マリーア・エリザベッタの娘マリーア・アデライデ従兄妹婚を行う。叔母の夫はハプスブルク家の皇族であったロンバルド=ヴェネト副王ラニエーリ(ライナー・ヨーゼフ)大公であり、一族の結束と政略結婚の双方を意図していた。
父王の退位「第一次イタリア統一戦争」も参照ノヴァーラの戦い

ナポレオン戦争後、正統主義に基づいた秩序で支配されていたヨーロッパ1848年革命という大動乱が巻き起こった。特に民族の牢獄とも呼ばれた多民族国家であるオーストリア帝国への影響は大きく、これを契機にしてロンバルド=ヴェネト王国内で反オーストリア人・反ハプスブルク家の反乱が全土で発生した。民衆と軍の双方から起こった反乱は瞬く間にミラノヴェネツィアを押さえ(ミラノの戦い)、若き日のガリバルディも加わっていた反乱軍は、帝国からの分離とイタリア人によるイタリアの統治を求めた戦いを始めた。しかし、共和主義者と結びついていた1848年革命の軍勢への支援は君主国家にとってデメリットが大きく、周辺国の反応は及び腰であった。

そんな中、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは唯一、反乱軍への公的支援を約束して軍勢を出陣させた。この時をもって、イタリア統一戦争の火蓋が切られた(第一次イタリア統一戦争)。ヴィットーリオも王太子として軍の一翼を預けられ、パストレンゴの戦い (it) とゴイトの戦い (en) で浮き足立つオーストリア軍を打ち破り、兵士と将校団を捕虜にした。反乱軍の歓声と共にミラノへ入城したサルデーニャ軍であったが、ここで父カルロ・アルベルトは共和主義の反乱軍の真意を疑い、同盟軍の合流を拒否するという愚行を犯した。

やがて、体勢を立て直したオーストリア軍が倍近い数で攻め返してくると、カルロ・アルベルトは反乱軍を置いて単独で出陣してしまう。ヴィットーリオも参加したクストーツァの戦いでサルデーニャ軍は勇戦するものの敗れ、ミラノに後退を強いられた。そしてここに至ってもガリバルディやマッツィーニ、マニンら共和派を信用しないカルロ・アルベルトによって、反乱軍とサルデーニャ軍は各個撃破の憂き目を見る(ノヴァーラの戦いブレシアの戦いヴェネツィアの戦い)。

戦争終結後、権威を失墜させたカルロ・アルベルトは存命中の退位という屈辱を受け入れ、ヴィットーリオ・エマヌエーレに王位を譲った。ヴィットーリオは3代前の君主の名を貰いヴィットーリオ・エマヌエーレ2世として即位し、難局の最中にある王国を率いていくことになる。
クリミア戦争「クリミア戦争」、「セバストポリの攻囲戦」、および「ケルナーヤの戦い」も参照セバストポリの攻囲戦

1852年、カヴールおよびチェッラレンゴおよびイゾラベッラ伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(通称カヴール伯もしくはカミッロ・カヴールだが、カヴールは爵位名であり姓ではない。姓はベンソである。)を王国宰相に任命したエマヌエーレ2世は、統一事業をいかに進めるか、対策を協議することになった。カヴールの元で諸外国との入念な根回しが進められ、また先の反省から共和勢力とも一定の距離を置きつつも協力が図られた。翌年にロシアオスマン帝国という東方の大国同士が衝突を始めると、ロシアの南下に危機感を抱いたフランスイギリスがオスマン側に立って参戦し、クリミア戦争へと発展した。サルデーニャ王国は英仏への支援という名目で、1万5000名の遠征軍をクリミア戦争へ派遣する決定を下した。

当初、外交政策に力を入れていたカヴール自身はオスマン側の勝利や外交的意義に疑問を抱いており、むしろこの遠征を強く勧めたのはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の方であった。到着したサルデーニャ王国軍は最大の激戦区となっていたセバストポリ要塞への総攻撃に投入され、無傷の増援部隊は疲れ果てていた英仏土軍にとって貴重な援軍となった(セバストポリの攻囲戦)。要塞陥落後、フランスにおける皇帝記念日であり、サルデーニャにおける聖母被昇天の祭日である日にロシア軍の奇襲が行われたが、サルデーニャ軍はミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ将軍の攻撃を防ぎ、ロシア軍陣地へと押し返す功績を残した。

期待以上の活躍を見せることに成功したサルデーニャ軍であったが、肝心のクリミア戦争は実質的に痛み分けという結果に終わった。外交面ではフランスやイギリスとの友好関係を高めることはできたものの、この時点では具体的な支援を約束するまでには至らなかった。だが英仏との協力関係、加えて同戦争でのオーストリアの孤立は、後にカヴールによるプロンビエールの密約への足がかりともなった。協定で、オーストリアに打撃を与えるためにフランスはサルデーニャを支援し、またサルデーニャは参戦の口実となる相手からの開戦を引き出すように求められた。

予定通りロンバルディアヴェネトを平定すればサルデーニャが同地を併合、見返りにニースサヴォワがフランスへ譲られる約束となった。
イタリア統一「第二次イタリア統一戦争」、「en:Treaty of Turin (1860)」、および「赤シャツ隊」も参照ソルフェリーノの戦い

1859年、万全の体勢を整えたサルデーニャ軍は遂に11年前の復讐を果たすべく行動を開始、総動員令によってオーストリアを挑発し、相手にも総動員令を発動させることに成功した。

開戦時点でサルデーニャ軍7万名に対してオーストリア軍は24万名を越えており、フランスが先の密約に従って15万名の援軍を送っても、まだ両軍を上回る戦力を有していた。しかし、予想していなかった増援に混乱するオーストリア軍は、モンテベッロの戦いで数的有利を生かせずに敗退、更にガリバルディら共和派の義勇兵がアルプス猟兵隊 (en) を結成すると、オーストリア軍はヴァレーゼの戦い (en) で彼らにも敗れ去った。勢いに乗るサルデーニャ・フランス連合軍はオーストリア軍をサルデーニャ国境から追い払うと、そのままロンバルディア平定を賭けた戦いに臨んだ。

ソルフェリーノの戦いで、サルデーニャ・フランス連合軍は激戦の末にオーストリア軍を破り、オーストリア軍はロンバルディアから敗走していった。歓喜に沸くサルデーニャ軍であったが、予想以上の戦果と自軍損害に慄いたフランス皇帝ナポレオン3世は、ロンバルディアのみをサルデーニャへ割譲する形で戦いを終らせようと単独交渉を始めた。


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