1335年にハンガリー王カーロイ1世、ポーランド王カジミェシュ3世、ボヘミア王ヨハンがヴィシェグラードで会議を持った。これにちなんでヴィシェグラードは1991年の首脳会議の開催地に選ばれ、グループの名前となった。1335年の会議では、ウィーンの特権港を迂回する新しい商業ルートを作り、ヨーロッパ市場へのアクセスを容易にすることが合意された。1335年には何らかの「グループ」が作られたわけではなかったが、1339年の会議ではポーランドの次代の王を選ぶ取り決めが交わされた。
カジミェシュ3世は男子を残さずに没してピャスト朝の本家筋が絶える(分家筋はシレジア地方を中心に17世紀までピャスト家として存続)が、後の15世紀に入るとピャスト家に代わってポーランド・リトアニア連合の君主を出すようになったヤギェウォ家(もとはリトアニア大公国の大公家)出身の人々が、ポーランドやリトアニアだけでなくボヘミアとハンガリーの王位にも即くようになり、この地域全体の人々がヤギェウォ家を神輿に担いで広大な王朝連合を築いている。
その後1572年に、法的国家連合であるポーランド・リトアニア共和国の成立(1569年)を実現したポーランドのジグムント2世王が男子を残さずに没し、これによってヤギェウォ家の本家筋が絶えるが、ポーランド王国のセイム(国会)がトランシルヴァニア公のステファン・バートリを招き、自由国王選挙の制度をもってポーランド王に据えるなど、これらの国々の政治的交流は非常に盛んであった。一方この時代のボヘミアは、ドイツ系のハプスブルク家の支配下にあった。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
経済
出典検索?: "ヴィシェグラード・グループ"
ヴィシェグラード・グループの4か国のうち経済危機の状態にあるハンガリーを除くポーランド、チェコ、スロバキアの3か国は、経済規模に対する対外債務総額や、外貨準備に対する短期対外債務とくに実際に借り換えの手続きが必要な債務の割合が非常に小さいなどヨーロッパの「元」共産主義の国々の中ではもっとも経済基盤が強く、2008年から始まった世界的な金融危機においても状況は比較的安定している[要出典]。特に人口が多く内需の強いポーランドの経済は国外発の不況をうまくかわしており、2009年はヨーロッパ諸国のうちで唯一、プラス成長をした[要出典]。 グループの議長国は毎年6月に、チェコ、ポーランド、ハンガリー、スロバキアの順で交替する。
議長国
1991年 ? 1992年: チェコスロバキア
1992年 ? 1993年: ポーランド
1993年 ? 1994年: ハンガリー
1994年 ? 1995年: スロバキア
1995年 ? 1996年: チェコ
1996年 ? 1997年: ポーランド
1997年 ? 1998年: ハンガリー
1998年 ? 1999年: スロバキア