ヴィクトル・ユーゴー
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ヴィクトル=マリー・ユーゴー(: Victor-Marie Hugo[3] [vikt?? ma?i y?o] ( 音声ファイル)、1802年2月26日 - 1885年5月22日)は、フランスロマン主義詩人小説家七月王政時代からフランス第二共和政時代政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。

少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。

1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。

日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。
生涯
出生から青年期まで
私生活

共和派ナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー[注 1] とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ[注 2] の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である[4]。アベル・ジョゼフ[注 3] とウジェーヌ[注 4] という2人の兄がいる。

生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島バスティアエルバ島ポルトフェッラーイオパリナポリマドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。

1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る[注 5]1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会[注 6] の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン[注 7] にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で[4]1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。

――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。

17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した[4]。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[注 8] との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[注 9] で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[注 10] に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める[4]

1823年7月16日、長男レオポール[注 11] が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。


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