――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。
17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した[4]。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[注 8] との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[注 9] で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[注 10] に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める[4]。
1823年7月16日、長男レオポール[注 11] が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ[注 12] と命名する。
1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。
翌1826年11月2日には次男シャルル[注 13] が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル[注 14] が誕生する。
1830年4月、ジャン・グジョン通り[注 15] へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。
そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール[注 16] が誕生する。 1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー[注 17] のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞[注 18] に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』[注 19] 誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。 1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』[注 20] が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』[注 21] を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。 1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ[注 22] で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。
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