ヴィクトル・チェルノフ
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ヴィクトル・チェルノフ
Виктор Михайлович Чернов
ヴィクトル・チェルノフ
生年1873年12月7日
生地 ロシア帝国、サラトフ県
没年 (1952-04-15) 1952年4月15日(78歳没)
没地 アメリカ合衆国ニューヨーク
思想社会主義
活動ロシア革命
所属社会革命党
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ヴィクトル・ミハイロヴィチ・チェルノフ(ヴィークトル・ミハーイロヴィチ・チェルノーフ、ロシア語: Ви?ктор Миха?йлович Черно?в、ラテン文字表記の例:Viktor Mikhailovich Chernov、1873年12月7日 ? 1952年4月15日)は、ロシア革命家帝政ロシア政治家社会革命党(エスエル)の創設者の一人。ロシア革命二月革命)後成立した臨時政府で農相を務めた。
生い立ち

1873年ロシア帝国サラトフ県に生まれる[1]。父ミハイルは、農奴出身から身を起こし、主計官を勤めて貴族となった[1]サラートフ中学在学中に社会問題に目覚める。この時期に「人民の意志」党(「人民の意志」派)のテロリストで、後に内相ヴャチェスラフ・プレーヴェ暗殺犯のエゴール・サゾーノフらに出会う。1890年プレーヴェが暗殺された時、チェルノフはサゾーノフのアパートにいた。このことは当然問題となり、長兄が学んでいた中学に転じた。1892年モスクワ大学法学部に入学する。大学では学生運動に身を置き、ナロードニキの継承者を以て任じていた。1890年代初頭、ロシアの学生は、ナロードニキとマルクス主義者に別れ論争を繰り広げていた。チェルノフは自由主義的ナロードニキ運動の理論的支柱であった評論家社会学者ニコライ・ミハイロフスキーの知遇を得たが、ミハイロフスキーがマルクス主義批判から革命に対して否定的な見解であったことには失望させられた。
農業理論の展開

1894年逮捕される。その後、タンボフ県で農民に対する工作を経て、1899年当局の許可を得て、家族とともに国外に移る。途中、サンクトペテルブルクのミハイロフスキーの下に立ち寄り、全人口中、農民が圧倒的に多い農業国での特殊条件を考慮に入れた社会主義理論を示唆される。このミハイロフスキーの示唆に加え、「合法マルクス主義者」として知られるピョートル・ストルーヴェの『ロシアの経済発展問題に対する批判的覚書』(1894年)に大いに触発される。国外でのチェルノフは、哲学農業理論に関する論文を発表し、評価された。チェルノフはマルクスを評価する一方で祖国ロシアの現状に鑑み、マルクス経済学を修正し、後進国ロシアの実情を分析した。チェルノフはロシアが資本主義化の端緒についたばかりであると喝破し、後進資本主義国ロシアの特殊事情を盛り込んだ農民主体の社会主義理論を提起した。
社会革命党結成

1900年チェルノフの発議によって、古参ナロードニキを集め農業社会主義連盟が創設された。同時にロシア社会革命同盟に加わる。さらに翌1901年12月グリゴリー・ゲルシューニ、マリヤ・セリューク、エヴノ・アゼフらの提案によって創設された社会革命党(エスエル)に参加し、党機関紙「革命ロシア」の編集人となる。チェルノフはヨーロッパ各国を訪問し、ロシア人の学生やプレハーノフレーニン亡命者と接触し、社会革命党の綱領、戦術について説いて回った。チェルノフの農業理論は社会革命党の綱領の中で定式化され、チェルノフは社会革命党を代表するイデオローグとなった。1903年党中央委員に選出される。1905年ロシア第一革命が起こると武装蜂起を主張している。しかし、1908年アゼフが当局のスパイであることが発覚し、責任を負って中央委員を辞任した。
ロシア革命

1914年第一次世界大戦が勃発すると、チェルノフは国際主義の立場を取り戦争反対を主張する。1917年ロシア革命(二月革命)が起こると、ロシアにイギリスを経由して帰国しペトログラード・ソビエト執行委員、副議長に選出された。

二月革命直後、ロシアはソビエトとゲオルギー・リヴォフ公率いる臨時政府の二重権力状態となった。チェルノフはソビエトと臨時政府の協調関係を支持し、民主化と土地私有化の改革、社会的所有化を実施すべきと主張した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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