だがゴードン将軍にはそもそも撤退の意思がなく、またマフディー側に寝返ったスーダン北方の部族により電線が切られて本国からの指示を受け取れなくなったことにより、グラッドストン政府の意思に反して同地に留まり、マフディー軍に包囲された[432][428][429]。イギリス世論はゴードン救出を求める声に沸き立ったが[432][433]、グラッドストンはスーダン問題への深入りを嫌がってなかなか援軍派遣を認めようとしなかった[425]。ヴィクトリアは陸相ハーティントン侯爵を通じて政府にゴードン救出を命じ続け、ついにグラッドストンも折れて遠征軍派遣を決定した[433]。
しかし遠征軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームは陥落してゴードンはマフディー軍に殺害された。この報を聞いたヴィクトリアは激怒して暗号電文ではなく通常電文でグラッドストン政府を叱責する電報を送った[434][435]。ヴィクトリアは2月末に何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべしと命じたが、グラッドストンは4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定した[436]。グラッドストンの態度に怒り心頭に発したヴィクトリアはディズレーリの命日にあたって「親愛なるビーコンズフィールド伯爵が生きていてくれたなら」と日記上で嘆いている[436]。
ゴードンの戦死で世論や議会はグラッドストンへの不満を高め、彼の第三次内閣が崩壊する一因となった。ゴードンは「帝国の殉教者」に祭り上げられ、イギリスがエジプト支配を手放すことはプライドにかけてできなくなった[437]。1895年頃からイギリスはスーダン奪回を最優先課題とするようになり[438]、そのためにそれ以外の地域の植民地争いを一時的に収束させようと「栄光ある孤立」を再考さえした。具体的には中国植民地化をめぐるロシアとの対立、トルコの利権をめぐるドイツとの対立、西部スーダン植民地化をめぐるフランスとの対立を、彼らに譲歩することによって回避した[439][438]。そしていよいよ1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍がスーダン攻撃を開始し、9月までにマフディー軍主力を壊滅させてハルトゥームを奪還した[439]。ゴードン戦死から13年たっての悲願達成であった[440]。ヴィクトリアも日記で「ゴードンの仇をとった」と喜んだ[441]。
この直後キッチナー軍が更に南下したため、フランス植民地軍と睨みあう形となりファショダ事件が発生したが、フランスの譲歩のおかげで英仏戦争の危機は何とか収束した[442]。
中国分割をめぐって列強諸国による中国分割を描いた風刺画。孫にあたるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と睨みあうヴィクトリア女王。
長らく中国はイギリスの非公式帝国状態で落ち着いていたのだが、1895年の日清戦争で清が日本に敗れて以降、中国情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清政府は露仏から借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与し、これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来のイギリス一国の半植民地状態が崩壊したのである[443]。とりわけ満洲や北中国を勢力圏にしていくロシアと、フランス領ベトナムから進出してきて南中国を勢力圏にしていくフランスはイギリスにとって脅威であった(この両国は1893年に露仏同盟を結んでおり、三国干渉に代表されるように中国分割でも密接に連携していた)[444]。
これに対抗して首相ソールズベリー侯爵は「清国の領土保全」「門戸開放」を掲げて露仏の増長に歯止めをかけようとした[445]。一方ヴィクトリアはヨーロッパ列強諸国が調和して中国分割を行うことを希望し、「我々が我々以外の何者にも分け前を渡すつもりがないという印象を列強に与えないように注意しなければならない。しかし同時に我が国の権利と影響は死守せねばならない」と第一大蔵卿アーサー・バルフォアに訓令している[441]。だがヴィクトリアは非ヨーロッパの日本の増長は面白く思っておらず、三国干渉の際にはロシアとともに東京に圧力をかけたがっていた[446]。
1897年11月に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が山東省に派兵し、膠州湾を占領して、そのまま清政府から同地を租借地として獲得し、山東半島全域をドイツ勢力圏と主張し始めるようになった。これに対抗してロシア皇帝ニコライ2世も翌12月に遼東半島の旅順と大連に軍艦を派遣して占領し、清政府を威圧してロシア租借地とした。首相ソールズベリー侯爵もこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、山東半島の威海衛に軍艦を派遣して占領してイギリス租借地とした。だが同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認める羽目にもなった。これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域(清国の総人口の三分の二が揚子江流域で暮らしている)にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものとなり、イギリスにとって大きな痛手だった[447]。
列強の中国分割に反発した山東省の農民たちは、1900年6月に「扶清滅洋」をスローガンに掲げる秘密結社義和団を結成し、20万人もの数で北京に押し寄せてきて、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラー(ドイツ語版)男爵を殺害した。義和団を味方につけて強気になった西太后は清朝皇帝光緒帝の名前で列強諸国に宣戦布告した[448]。真っ先に危険にさらされたのは北京・外国公使館街に駐在している外国人たちだった。彼らはキリスト教に改宗した中国人とともに公使館街にバリケードを築いて清軍や義和団の攻撃を防いだ。公使を殺害されたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が真っ先に援軍を清に送り込むことを決定。イギリス政府としても援軍を送らないわけにはいかなかったし、ヴィクトリアも援軍派遣を希望したが、イギリス軍は目下ボーア戦争中であり、極東に割く余分な兵力はなかったので日本に協力を要請した。日本政府はこれを快諾し、2万の兵を清に送り込んだ。