ヴィクトリア_(イギリス女王)
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1880年4月の総選挙にディズレーリ率いる保守党が敗れたため、再びグラッドストンに大命降下せねばならない事態となったが、ヴィクトリアは自由党政権を誕生させるとしてもグラッドストンの首相就任だけは阻止したいと願い、自由党下院指導者ハーティントン侯爵を首相にしようと画策したが、グラッドストンや自由党内からの反発を招き、結局グラッドストンに再度組閣の大命を与えることを余儀なくされた[246][注釈 8]

グラッドストンには君主は象徴的役割に限定されるべきという持論があり、「女王の忠臣」ディズレーリ時代を機に本格的に政治に介入し始めていたヴィクトリアを再び政治から遠ざけようと図った[249]。彼はアイルランド問題についてヴィクトリアの意見を聞くつもりはなかった。ヴィクトリアは王太子バーティ宛ての手紙の中で「女王に相談すべき大問題なのに女王を完全に無視するこの恐るべき急進的政府には仮面を付けた共和主義者が大勢いる。彼らはアイルランド自治派に頭が上がらない。グラッドストンは計り知れない過ちを犯している。」と怒りを露わにしている[250][251]

1884年、地方の炭鉱などの労働者にまで選挙権を広げる第三次選挙法改正法案が議会に提出されたが、地方に基盤を持つ自由党と都市部に基盤を持つ保守党の間で紛糾し、8月にはグラッドストンもヴィクトリアに仲裁を依頼する羽目になった。女王がグラッドストンと保守党党首ソールズベリー侯爵の間を取り持った結果、11月に自由党と保守党の妥協が成立し、第三次選挙法改正法案が可決されて有権者数が更に増加した[252][253]。これにはグラッドストンも女王の強力な仲裁に深く感謝した[254][255]

1885年6月に予算案が否決されたことでグラッドストン内閣が辞職し、保守党のソールズベリー侯爵に大命降下した[256][257]。ヴィクトリアはグラッドストン辞職を心より喜んだが、11月の総選挙は自由党とアイルランド国民党が勝利した。グラッドストンはソールズベリー侯爵内閣の倒閣のためアイルランド国民党と手を組もうといよいよアイルランド自治を主張し始めた[258]。グラッドストンが再び首相に就任することを恐れるヴィクトリアは自由党内のアイルランド自治反対派をソールズベリー侯爵と連携させようとした[259][260]。さらにソールズベリー侯爵内閣に「王室のお墨付き」を与えようと1886年の議会開会式に10年ぶりに出席した(これがヴィクトリア最後の議会開会式出席となった)[259][260]

しかしこうした女王の工作もむなしく、自由党とアイルランド国民党の共同はなり、ソールズベリー侯爵は議会で敗北して辞職に追い込まれた[261]。ヴィクトリアはアイルランド自治に反対する自由党議員ジョージ・ゴッシェンを召集して後継首相について諮問することでなおもグラッドストンに大命降下するのを阻止しようとしたが、ゴッシェンが参内を拒否したため、1886年2月1日グラッドストンに三度目の組閣の大命を与えることを余儀なくされた[262]。しかしヴィクトリアは組閣後ただちに倒閣に動き、保守党と自由党内のアイルランド自治法反対派が党を割って創設した自由統一党の連携の仲介を取り、その結果6月にアイルランド自治法案は僅差で否決された。続く解散総選挙もグラッドストンの自由党の敗北、保守党の勝利におわり、グラッドストンは辞職した[263][264]

しかし1892年7月の総選挙で保守党が敗北した結果、8月にグラッドストンに四度目の組閣の大命を与える羽目となった[265][266]。グラッドストンはライフワークのアイルランド自治法案をまた提出した。今回は自由党内が一つにまとまっており、またアイルランド国民党が指導者チャールズ・スチュワート・パーネルを失って立場が弱い時期だったため無条件に自由党に協力した結果、庶民院で同法案が可決された。しかしソールズベリー侯爵の尽力で貴族院が圧倒的多数で否決した。ヴィクトリアはソールズベリー侯爵の功績を称えている[267]。グラッドストンももはや高齢であり、ついにアイルランド自治法案を諦め、1894年に引退を決意して辞職を願い出た[267]。ヴィクトリアは二度とグラッドストンの顔を見ずに済むことに大喜びした[268]。彼の最後の伺候にも労いの言葉はまったくかけなかった[226]

グラッドストンは1898年に死去したが、ヴィクトリアは弔意を出すことを求められても「嫌ですよ。私はあの男が好きではありません。気の毒と思っていないのにどうして気の毒などと言えるでしょうか」と述べて断っている[269]
在位50周年・60周年記念式典

1887年6月20日にヴィクトリア女王は在位半世紀を迎え、在位50周年記念式典(ゴールデン・ジュビリー)(英語版)が挙行された。各国の王室・皇室が招かれての祭典となった。ベルギー(レオポルド2世)、デンマーク(クリスチャン9世)、ギリシャ(ゲオルギオス1世)、ザクセン(アルベルト)の四か国は君主が自ら出席し、それ以外の国々も高位の王族・皇族が出席した。日本からは小松宮彰仁親王が出席した[270]。ヴィクトリアは高官や彼女のために集まった世界中の王族・皇族たちを随伴しながら群衆の間を通ってウェストミンスター寺院へ向かい、そこで神に感謝をささげた。バッキンガム宮殿に戻った後ヴィクトリアは「大変疲れましたが、とても満足です」と述べている[271]

1897年6月の在位60周年記念式典(ダイヤモンド・ジュビリー)(英語版)はヴィクトリアの希望で各国の王室・皇室を招いた式典ではなく、世界各地の植民地の首相や駐留連隊代表者を集めた「帝国の祭典」として行われることになった[272][273][274]。各国代表使節の出席も認められたが、君主の出席は断っている。日本からは有栖川宮威仁親王伊藤博文が出席した[275]


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