ヴィクトリア_(イギリス女王)
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ヴィクトリアは帝国主義政策においては最強硬派・主戦論者として政府に発破をかける役割を果たすことが多かったが、彼女の「帝国の母」「慈愛」のイメージは世界各地の植民地の臣民たちを一つに結び付け、大英帝国の維持・拡大に大きな礎となった。

9人の子女(4男5女)が欧州各国の王室・帝室と婚姻を結んだ結果、ヴィクトリアは「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至った[3]。例えば、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世ロシア皇后アレクサンドラロシア皇帝ニコライ2世妃)は孫にあたる[7]
生涯
生誕

ヴィクトリアは、1819年5月24日午後4時15分頃にロンドンケンジントン宮殿で誕生した[8]

父はケント公爵エドワード(ジョージ3世の四男)。母はその妃ヴィクトリア(ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国の公フランツの娘)[注釈 2]

「父ケント公は借金まみれであり、物価の高いイギリスでは暮らしていけない」と言って、ベルギーやドイツ諸国を転々として暮らしていたが、妃の出産が近くなると、生まれてくる子を「ロンドン出生」にするため流産の危険を冒してでも一時帰国し[10][11][12][注釈 3]、ケンジントン宮殿を兄の摂政王太子ジョージ(後の英国王ジョージ4世)から借り受けていた[15]。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

父のケント公爵エドワード

母のヴィクトリア

ケンジントン宮殿とヴィクトリア像(2005年撮影)

また、母のヴィクトリア妃はケント公との結婚前にライニンゲン侯エミッヒ・カール1814年死去)と結婚しており、カールフェオドラという異父兄姉がいた。
生誕時の王位継承における立場

ハノーヴァー家はドイツの領邦ハノーファー王国の王家であるが、旧イギリス王家ステュアート家と縁戚関係があり、その関係でステュアート家が絶えた後、ハノーファー君主(当時は選帝侯)が同君連合でイギリス王位も継承した。ハノーファー王室はサリカ法の適用を受けるため、女子の王位継承が認められていないが、イギリス王室にはサリカ法の適用がないため、女子にも継承権があった[16]イギリス王位継承順位は、2013年王位継承法の制定まではコモン・ローに基づき、王の最年長の男子が継承するのが基本だったが、男子がなく女子のみある場合には最年長の女子が王位を継承する[16][17]となっていた。

生誕時のヴィクトリアのイギリス王位継承順位は3人の伯父、摂政王太子ジョージ、ヨーク公フレデリッククラレンス公ウィリアム(後の国王ウィリアム4世)と父ケント公に次ぐ第5位であった[18]

かつて摂政王太子ジョージにはシャーロットという嫡出子がおり、いずれ彼女が王位を継ぐものと目されていたが、1817年11月6日に身ごもった子供を死産させた際に薨去したため次々世代の王位継承者が消滅した[19][20]。というのも、この1817年の時点ではジョージ3世の王子らは摂政王太子を除いて誰も嫡出子を持っていなかったからである[20]

これに焦った摂政王太子と議会は、結婚していない王子たちに資金援助をちらつかせて、しかるべき君主家の娘を正妃に迎えて嫡出子作りを促した。借金まみれのケント公もそれが目当てで未亡人[注釈 4]のドイツの小領邦君主の娘と結婚してヴィクトリアを儲けたのであった。ヴィクトリアが生まれる2か月ほど前に伯父クラレンス公にも嫡出子シャーロットが生まれていたが、その子は出生後すぐに薨去したため、ヴィクトリア誕生の時点ではヴィクトリアが次々世代の王位継承最有力候補者であった[22]。とはいえクラレンス公妃アデレードはまだ十分に子を産めそうであり、またヴィクトリアの母ケント公妃もまだ子が産めそうであったため、これから弟が生まれる可能性もあり、そうした場合には第4王子の女子に過ぎないヴィクトリアの王位継承は一気に遠のくという不安定な立場であった[23]

ヴィクトリア生誕時(1819年5月24日)のイギリス王位継承順位
※灰色は故人、()の中の〇位はハノーファー王位の継承順位。なお3日後にはアーネストにゲオルク5世 (ハノーファー王)が誕生[24]している[25]

         イギリス王
ハノーファー王
ジョージ3世   王妃
シャーロット 
    
                              
                               


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