産業革命は既に勢いづいていたが、工業化の効果が20世紀の大衆社会を生み出すのはまさにこの時期である。産業革命はイザムバード・キングダム・ブルネルらによって国中の鉄道網を発達させ、工学に大きな前進をもたらした。
ヴィクトリア朝では今日のように科学が学問分野となるまでに成長した。大学における科学の知的専門職が増えると共に、ヴィクトリア朝の多くの紳士たちが博物学に身を捧げた。
チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が1859年に発刊され、民衆のものの考え方に非常に大きな影響を与えた。
1863年1月10日、メトロポリタン鉄道がパディントン駅とファリンドン駅間を結ぶロンドン地下鉄を開通させた。
1882年、白熱電灯がロンドンの街路に導入された。しかしあらゆる場所に行き渡るには、なお何年もの時間がかかった。
文化戦艦テメレール号 ジョゼフ・ターナー作
1838年
ヴィクトリア女王の治世1837年から1901年は英国の黄金期であるばかりでなく、英国の美術にとっても黄金期、爛熟期であった。公私とも円満だった女王とアルバート公夫妻に象徴されるように、この時代には家庭の平和と、いや増す繁栄があり、それらが絵画が花開く条件につながっていた。
この時代はコンスタブル、ターナー、ランドシーア、ロセッティ、ミレー、バーン=ジョーンズ、レイトン、ワッツ及びホイッスラーらを生んだ。彼らはヴィクトリア女王の治世の間、生存していた(コンスタブルは例外で、ヴィクトリア女王の即位の年に死亡した)。およそ11,000名の一般に認められた画家が誕生した。凡庸な者も多かったが、高い才能と美術的な完成度を持つものも数多かった。
この時代は膨大な数の美術品を生み出し、一般大衆が展覧会に殺到した。その中には絵画の立派なコレクションを持つ富裕層もいた。ヴィクトリア女王は英国の芸術家を後援した。数多くの芸術家が貴族と同等の人間関係をもって上流社会と交わるという名誉ある地位を占めた。その結果、ヴィクトリア朝の英国は、これに先立ついかなる偉大な芸術時代とも比肩する創造性の開花を見ることとなった。
ヴィクトリア朝は多くの人に、感傷、保守的な道徳観と過度の上品さ、装飾過剰を連想させる。しかし、ヴィクトリア朝の画家はいまだかつてない産業革命の成果と、全面的な社会や道徳観の変化をうまく描き出した。ディケンズやジョージ・エリオットの小説、オスカー・ワイルドの演劇、及びテニスンやブラウニングの詩は、ヴィクトリア朝の画家に相手役を持っていた。この時期はエスタブリッシュメントと進歩主義的趣味の分離が始った。進歩主義はアバンギャルドの近代的な思想を生み出す。芸術家のグループが拡大し、ラファエル前派、「ザ・クリック」、セントジョーンズウッド派、クランブルックコロニー、ニューリン派として知られる集団が生まれた。ラファエル前派は、詳細と真実は、人生と芸術の両方において重要だと信じた。絵画において人と物は理想化されてはならない、いぼやしみの全てに至るまで実物のリアリティーを反映していなければならない、と考えた。一部の画家は単に独立を好み、コロニーや団体に所属するのを避けた。英国の芸術においては、多様性と個人主義こそが魅力を生むのである。
ヴィクトリア朝の画家たちは、さまざまな社会的・教育的背景を持つ幅広い層にも理解できるように作品を作ることを選んだ。これにより、娯楽と共に文化的向上を提供したのである。ヴィクトリア朝の芸術は大衆的芸術だった。絵画は、テクノロジーが絵画に競合するアトラクションを提供する今日そうである以上に、社会でより幅広く議論されていたのだった。ヴィクトリア朝芸術の並外れた豊かさ、多様性、複雑さは、裕福で複雑な社会を反映していた。絵画は、後にヴィクトリア時代として知られることになる英国の富と力の絶頂期の理想、社会構造、上昇志向を背景としていなければならなかった。産業革命も芸術に強い衝撃を与えた。ロマン主義とリアリズムはどちらも、この時代の力強い変化への反応と考えられている。
ヴィクトリア朝における特記すべき文化の項目は以下のとおり:
文学
小説
エリザベス・ギャスケル
ジョージ・ギッシング
ジョージ・エリオット