ヴァンデの反乱
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カトリック王党軍がナントの市内にまで進入し勝利も目前だと思われたとき、最高司令官のカトリノーが銃撃に倒れ、兵士たちはパニックに陥り撤退を余儀なくされた。カトリノーは2週間後の7月14日に死亡した。
政府軍の反撃ロワール川を越えて北上するカトリック王党軍(ジュール・ジラルデ画)

1793年8月に国民公会は革命政府軍にヴァンデの破壊命令を出している。指令は、「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」というものであった。それを受けて政府軍は森林、畑、家、教会を荒らし、人間を無差別に殺害した。

一方、反乱軍では退却後、カトリノーの死の影響が大きく離脱者が続出し統制が取れなくなっていた。93年末には反乱軍はその勢力をほぼ失った[5]。反乱軍は、英仏海峡を目指して転進したが、グランヴィルの前面で退けられ、敗退を続け、食糧もなく疫病が流行り、士気も低下した。にもかかわらず、政府軍の無差別攻撃により逃げ出してきた農民をも含め、10余万人にも膨れ上がってしまった。彼らは遂に諦めて故郷に帰ろうとロワール川を越えて北上したが、サヴネの町での戦闘で壊滅した。捕虜になった者はナントに連行され、ロワール川に浮かぶ廃船に積み込まれて沈められた。
その後

その後も政府は「地獄部隊」と名付けられた連隊を派遣し、同様の作戦を続けたため、ヴァンデ地方では反乱は小規模なゲリラ戦に形を変え続いたが、1794年に反乱鎮圧に派遣されたルイ=ラザール・オッシュが軍司令官として赴任すると、捕虜の農民兵との面談から、農民が反乱に加わったのは宗教的自由のためであって、寛容政策をとれば彼らは王党派反乱から離脱するだろうということを知り、政策変更に踏み切った。この政策変更が功を奏して、1795年2月にはヴァンデ反乱軍は瓦解し始めた。

同年6月15日、イギリスの支援で王党派部隊がキブロンに上陸したが、ヴァンデ反乱軍は撃退されて大半が捕虜となるなど致命的な打撃を受けた。執拗にゲリラ戦を続けていた最後の生き残りの指導者シャレットも検挙されて銃殺された。しかし、シュアヌリ(ふくろう党)がこのように長期にわたって活動を持続できたのは、地域住民からの強い支持があったためと、地元の地理に深く通暁していたためであった[5]

オッシュは1796年までにヴァンデ地方の平定を宣言。 1801年には、執政官ナポレオン・ボナパルトローマ教皇と和解し、ヴァンデに対して数々の復興の政策を講じることでこの反乱は完全に終結した[* 1]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ナポレオンは1801年、ローマ教皇ピウス7世との間に政教協約(コンコルダート(英語版))を結んでいる。

出典^ 『ヴァンデ戦争 フランス革命を問い直す 。森山 軍治郎 。絵本ナビ』。https://www.ehonnavi.net/sp/sp_ehon00.asp?no=233906。 
^ https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/23923/files/KU-1100-20230301-07.pdf
^ 国府田武訳『フランス革命史』p120-124,1992年 文庫クセジュ,白水社
^ 高柳(2001)pp.87-94
^ a b c プライス(2008)pp.174-178

参考文献

『ヴァンデ戦争―フランス革命を問い直す』 - 筑摩書房 (1996年6月) 森山軍治郎


『ヴァンデの反乱 影のフランス革命史』‐ 荒地出版社(1996年3月) 小栗了之著

フランス革命におけるヴァンデ戦争の史的位置/田中久美子  https://irdb.nii.ac.jp/01217/0002485443

高柳俊一 著「フランス絶対王政と革命」、高柳俊一、松本宣郎 編『キリスト教の歴史2 宗教改革以降』山川出版社〈宗教の世界史9〉、2009年8月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-634-43139-3。 

ロジャー・プライス 著、河野肇 訳「フランス革命とナポレオン帝国」『フランスの歴史』創土社〈ケンブリッジ版世界各国史〉、2008年8月。ISBN 978-4-7893-0061-2。 

反乱に参加した人物

ジャック・カトリノー:初代総司令官

ルイ・ド・エルベ:総司令官(2代目)

アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン:総司令官(3代目)


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