ヴァンダービルト大学
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これは水疱瘡天然痘黄熱病発疹チフスロッキー山紅斑熱など菌の繁殖を病原体とするその他の疾病へのワクチンの製造を可能にした。

第二次世界大戦中、アメリカ海軍の委任のV-12 大学トレーニング・プログラムで全米131校のうちの1校に加わった[10]
公民権運動およびそれ以降旧機械室、現在オウエン経営大学院

1950年代後期、ヴァンダービルト大学神学校でも公民権運動が騒がれるようになり、改革のリーダーの1人ジェイムス・ロウソンが退学させられた。2005年、ロウソンは2006年から2007年の年度に殊勲教授として雇用され、彼の功績を称え殊勲卒業生に名を連ねることとなった[11]

1966年、南東カンファレンスで初のアフリカ系アメリカ人選手ペリー・ウォレスを入学させたことで全米の注目を集めた[12]。ナッシュビル出身のウォレスは1967年から1970年の間、ヴァンダービルト大学のバスケットボール・チームで活躍したが、南東カンファレンスの他のチームとの対戦では人種差別に直面した。2004年、学生主導でウォレスのジャージを手に入れることができた。大学内で人種の統合が課題となっていた1955年から1968年、ハロルド・スターリング・ヴァンダービルトが評議会長を務めていた。現在、彼の功績を称え、彼の彫像がバトリック・ホール前に立っている。

1966年、オーバリン大学神学部大学院オハイオ州からナッシュビルに移転し、ヴァンダービルト大学神学校と合併した。1979年、近隣にあったピーボディ大学を吸収合併。

2002年、ピーボディのキャンパス内にある記念的建物である学生寮のコンフェデレイト・メモリアル・ホール(南部連合記念館の意)の名称変更を決定した際、ヴァンダービルト大学の歴史、人種、公民権運動を思い起こさせる問題が最前線に浮上した[13]。1933年にこのホールの建設のために5万ドルを寄付した、南部連合関係者、その家族や子孫の女性で構成されるUnited Daughters of the Confederacy のテネシー支部が起こした裁判によって全米の注目を浴びた[14]

2003年、デイヴィッドソン郡衡平法裁判所はこれを退けたが、2005年5月、テネシー高等裁判所は、コンフェデレイト・メモリアル・ホールの名を示すものがこの建物から取り除かれたり変更されたりしようとも、大学はDaughters of the Confederacy が寄付した金額を現在の貨幣価値に換算して損害賠償を支払うべきだとした[15]

2005年7月、大学は公式にこのホールの名称を変更し、大学の全ての出版物や事務所などでも単に『メモリアル・ホール』とすることを発表したが、これを大ごとにすることも、既に印字された名称を取り除くことも損害賠償を支払うこともない、とした[16]
現在

現在では、南部を代表する名門大学(Harvard of the South)としてその名を轟かせている。アジアからの留学の歴史は古く、近代中国史で有名な宋三姉妹の父が孫文に会う前の若かりし時にこの大学で最古の学部である神学校に留学していたのも一例である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本における一般知名度は アイビー・リーグの学校に比して高くないが、それは卒業生が量的に少ないせいであり、そしてそれは、長い歴史の中でこの大学が生徒数を急増させないで、教育資金の充実と教育研究施設の改善をし続ける方法によって、その教育研究の質と評価を上げてきたことを良く反映している点である。[要出典]創設者のスピリットは今なお生き続け、本大学における10の専門教育機関はそれぞれの専門分野において国際的に注目される研究機関である。経済学部からは、ノーベル平和賞受賞者のグラミン銀行総裁ムハマド・ユヌスが博士号を受けている。また、医学部及び同大学付属病院では、癌研究や小児外科などにおいて最先端の治療入院研究施設を持ち多くの研究結果をあげており、日本からも多くの医師、生物学、化学研究者が色々なテーマでの研究に参加してきた。日本人の学生が最も多いのはビジネススクール(Owen Graduate School of Management)で、MBAプログラムでは、ビジネス界をリードする多数の人材を輩出してきた。クリントン政権において副大統領を務めたアル・ゴアが在学したロースクールも有名で、J.D.(Juris Doctor)プログラムおよびLL.M.(Master of Laws)プログラムの日本人卒業生・在校生がいる。en:Peabody College of Education and Human Development(Peabody)は2012 USニューズ&ワールド・レポートにおいて1位にランクされており(ちなみに2位はハーバード大学、テキサス大学オースチン校である)、全米でもトップレベルである。
組織、運営旧本館(1875年)。1905年の焼失前の写真。

民間企業としてのヴァンダービルト大学は自己永続的な評議会による完全な独立行政である。45名の正会員および何名かの名誉会員と大学の最高経営責任者(CEO)である学長で構成される[17]。どの会員も任期は5年(最近の卒業生で2年任期の4名を除く)である。マーク・ダルトンが現在の評議会長である[18]

ニコラス・S・ゼポスが現在のヴァンダービルト大学の学長である。2007年8月1日、オハイオ州立大学の学長を再び務めることとなった先代のゴードン・ギーがヴァンダービルト大学を離れた後に暫定的学長となり[19]、2008年3月1日、正式な学長となった[20]
歴代学長旧本館焼失後、塔1つで建て直されカークランド・ホールと名付けられた。現在運営本部となっている。

1875年の創立からたった8名の学長が務めてきた[21]。1875年から1893年の18年間務めた初代学長はランドン・ガーランド。彼は大学の組織を形成し、最初の教授陣を雇った。校舎の1つに彼の名に因んだガーランド・ホールがある。

1893年から1937年の44年間務めた第2代学長はジェイムス・カークランド。ヴァンダービルト大学の学長の中で彼が一番任期が長い。彼の時代に大学と教会の対立があり、また医学部をメイン・キャンパスに移した。1937年に彼が退任した後、メイン・ビルディングはカークランド・ホールと名付け変えられた。

1937年から1946年の9年間務めた第3代学長はオリヴァー・カーマイケル。一番任期が長い学長の後続はヴァンダービルト大学において任期の短い学長のうちの1人であった。カーマイケルは大学院を発展させ、ジョイント大学図書館、ピーボディ大学、スキャリット大学を創立した。敷地の北端にある高層の寮にカーマイケル・タワーと名付けられている。

1946年から1963年の17年間務めた第4代学長はハーヴィー・ブランスコム。大きな発展や改善の時期を過ごした彼は、全ての人種に入学の機会を与えた。学生寮複合施設にブランスコム・カードラングルと名付けられている。

1963年から1982年の19年間務めた第5代学長はアレクサンダー・ハード。オウエン経営大学院を創立し、ピーボディ大学と交渉により合併した。人種差別撤廃に意欲的であったことから人種差別主義者から退任を求める動きもあったが存続することができた。3,300万冊を貯蔵する大学内10館の図書館のシステムに彼の名が冠されている。

1982年から2000年の18年間務めた第5代学長はジョー・B・ワイアット。大学の寄付金を厳しく管理し、学生も多様化し、多くの校舎を建て直した。教授や講師の質の向上に尽力し、毎年行われる『USニューズ&ワールド・レポート』のランキングで初めてトップ25にランクインした[22]。ピーボデイ・キャンパス内にワイアット夫妻に因んで名付けられたワイアット・センターがある。

2000年から2006年の6年間務めた第6代学長はゴードン・ギー。2002年2月、評議会により任命された。2006年、大学所有の学長邸の改築のために600万ドルを使うなど、浪費が問題視された。2006年9月の『ウォールストリート・ジャーナル』誌9月号の記事で、ギーや大学の浪費は、高学歴の者にありがちな怠慢なミスの例である、とされた。評議会は学長事務局での資金の使途にさらに注意を払うこととなった[23]

2007年から現在の第7代学長はニコラス・S・ゼポ。ギーの退任後しばらく暫定的な学長であったが[24]、2008年3月1日、評議会により正式な学長に任命された[25]
医療センター

ヴァンダービルト大学医療センター(VUMC)はヴァンダービルト大学にとって重要な要素であり、中部テネシーで唯一のレベル1外傷センターがある[26]。VUMCには、ヴァンダービルト大学病院、モンロー・カレル・ジュニア・ヴァンダービルト大学子供病院、ヴァンダービルト=イングラム癌センター、ヴァンダービルト精神病院、ヴァンダービルト診療所、ヴァンダービルト・ビル・ウィルカーソン・センター、ヴァンダービルト・ストールワース・リハビリ病院、エスキンド生物医学図書館、ヴァンダービルト・スポーツ医学、ダヤニ人間性能センター、ヴァンダービルト・ペイジ・キャンベル心臓研究所、ヴァンダービルト大学薬学部、ヴァンダービルト大学看護学部がある[27]


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