ヴァルナ_(ブルガリア)
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平均月間日照時間83.787.6120.9159.0220.1240.0282.1279.0219.0164.3105.071.32,032
出典:World Meteorological Organisation (UN)[6]

歴史
先史時代「en:Varna Necropolis」も参照

先史時代の集落である銅器時代のヴァルナ・ネクロポリス(英語版)(放射性炭素年代測定で紀元前5,000年半ばに遡る。)は世界の先史時代の考古学上の鍵となる遺跡で古ヨーロッパ(英語版)やヴァルナ文化(英語版)のエポニムであり、現代の都市域では世界的に最古で最大の金の工芸品が発見されている。広い地域では1900年以前は淡水湖であったヴァルナ湖と隣接したカルスト地形の泉や洞窟では30を超える先史時代の集落が発見され、中期旧石器時代か10万年以上前の最初期の遺品が発見されている。
古代とブルガリア人の征服オデソスに残る古代ローマの遺跡テルマエ西側のアポディテリウム。背後は聖アサナシウス教会の鐘楼

古代のトラキアには紀元前1,000年にはトラキア人が居住していた。ミレトスの人々によりオデソスに交易地点であるアポイキアapoikiaが紀元前7世紀の終わり頃に設立されたか、古代ギリシャの地理書Pseudo-Scymnus (en) によれば当時アステュアゲス(紀元前572-570年頃と言われている。)で初期のトラキア人の居住地であった。オデソスの名称はおそらくギリシャ以前のアナトリア語派カリア語がもとであるとされる。ポントスのペンタポリス(英語版)のメンバーであったオデソスには様々なコミュニティがありイオニア人と後背地のトラキア人(ゲタイ、クロビゾイ(英語版)、テリジ(英語版))との接触の場であった。

トラキア人の土地の近くの発掘では紀元前7世紀から4世紀にかけて絶え間なく居住しており、植民と商業が密接していた。ギリシャ文字トラキア語に少なくとも紀元前5世紀から使われている。

紀元前425年、オデソスはデロス同盟の評価に含まれていた。紀元前339年のピリッポス2世の包囲は成功しなかったが、紀元前335年アレクサンドロス3世に降伏しその後、ディアドコイであるリュシマコスにより支配された。紀元前313年には他のポントスやゲタイの都市の一部が連合し反乱を起こしている。ローマ都市としてのオデソスは最初、海岸県Praefectura orae maritimaeに含まれていたが15年モエシア(後のモエシア・インフェリオル)に併合され、今日のヴァルナ中心部には47ヘクタールを占めた公共浴場のテルマエがあり2世紀後半に建築され、今日ではブルガリアに残る最大のローマのもので建物は幅 100 m (328.08 ft) 、長さ 70 m (229.66 ft) 、高さ25 m (82.02 ft)でヨーロッパでも4番目に大きなローマ風呂として知られている。3世紀頃には大きな陸上競技会が5年ごとに開かれていた。

オデソスは初期の初代教会の中心で、10カ所の初期のバシリカの跡がそれを物語っており[7]単性説修道院や七十門徒、アンプリアト(英語版)、アンデレの門弟が表れて主教が務めていた。6世紀、帝国の文書では「聖なる都市」sacratissima civitasと呼ばれていた。442年、テオドシウス2世アッティラとの間で和平協定がオデソスで結ばれた。513年ウィタリアヌス (Vitalian (general)) の反乱の中心となった。536年ユスティニアヌス1世は独特の行政区画で quaestor Justinianus などが治めるQuaestura exercitus (en) の中心を設け下モエシアやスキュティア、カリア、エーゲ海諸島、キプロスが含まれていた。後にオデソスの外に軍の野営地に他のローマ人上級司令官の中心が置かれた。イレチャク・ライン(英語版)またはラテンとギリシャを分けるおおよその言語的な境界線がオデソスからアドリア海にかけて当時走っていた。

テオファネス (証聖者)に最初のヴァルナの言及があり6-7世紀にかけスラヴ人によるバルカン半島の征服により知られるようになった。この名称はおそらくもっと古く、インド・ヨーロッパ祖語語根(英語版)の水を意味するwe-r- [8]スラヴ祖語がルーツである黒を意味する varn 、イラン語群で野営地や要塞を意味する bar やvarからもたらされている可能性もある。

テオフォーヌによれば680年に第一次ブルガリア帝国の建国者であるアスパルフはドナウデルタ近くでコンスタンティノス4世の一軍団を敗北させた後、追跡し続けヴァルナと称するオデソス近くに達しった。おそらく、最初にヴァルナの新しい名称が使われたのは近隣の川や湖、ローマ人の野営地や島などで街の名称として使われたのは後のことである。10世紀後半、ヴァルナの名称はしっかりと確立したがブルガリア人から970年代にビザンティンに支配が戻った時も古代のオデソスを使うよりもヴァルナの名称が使われた。681年のビザンティン帝国との和平条約により新しいブルガリアの国が建国され一時的にドナウ以南のブルガリアの最初の首都とされた。ことによると、古代の都市はヴァルナ湖の北岸近くユスティニアヌス1世によりテオドリアス(Θεοδωρι??/Theodorias)と名付けられた場所で、70km西のプリスカへ移動する以前に置かれた。[9]

要塞化されたアスパルクはヴァルナ川低地のおそらくビザンティンの上陸を阻止する為のもので、アスパルホヴォの壁(Asparuhov val)は今でも残されている。多くの7世紀のブルガール人の集落が市内やさらに西側で発見されており、ヴァルナ湖の北岸にはすべての地域でもっとも多くのブルガール人が密集して住んでいた。アスパルクは重要なローマの軍の野営地(campus tribunalis)でユスティニアヌス1世によりオデソスの外に設けられ下モエシアやスキュティアを治める中心であったと考えられる。
中世

中世の間、ビザンティンとブルガリアとの間で支配が幾度となく変わった。9世紀後半から10世紀前半にかけてのヴァルナはボリス1世により与えられた修道院のプレスラフ文学校の重要な写字室が置かれていた。写字室はキュリロスメトディオスのある弟子の教えの下、ブルガリア人の学者がキリル文字を発達させるのに鍵となる役割を演じたかもしれない。考古学者のカレル・シュコルピル(英語版)はボリス1世がそこに埋葬されていることを示唆している。ギリシャのトラキア人やローマ人、同様に東のアルメニアやシリア、ペルシャの特徴で合わさった文化によりユスティニアヌス1世統治下のオデソス周辺は発達し、それらの文化は第一次ブルガリア帝国のプリスカ・プレスラフ文化に影響を与えた可能性があり表面上は建築や人工的な装飾芸術で、ことによるとキリルの学問を含む文学なども含まれる。1201年、カロヤン・アセン攻城塔を使用して、聖土曜日にビザンティンの下にあったヴァルナ要塞を占領し、第二次ブルガリア帝国を確実なものとした。

13世紀後半の1261年に軍事同盟であるニンファエム条約がミカエル8世パレオロゴスジェノヴァ共和国の間に結ばれ、黒海からジェノヴァにかけての通商が開かれヴァルナはジェノヴァや後のヴェネツィア共和国ラグーサ共和国などの商船がやってくる商港都市として繁栄した。二つの海の共和国は領事館や国外居住者の居留地を有しており、ラグーサの商人の港での活動はプロヴァディヤ近くの居留地から17世紀まで残っていた。街には両側に二つの城塞とカストリツィ(Kastritsi)とガラタ(Galata)の小さな商港があり、それらは互いの視界内にあり湖やマグリズ(Maglizh)、ペトリチ(Petrich)を見下ろす二つの要塞により保護されていた。

小麦や動物の皮、蜂蜜、 蝋、ワイン、材木、他に地元の農産品をイタリアやコンスタンティノープルの市場へ主に輸出し、地中海の食品や贅沢品を輸入していた。ヴァルナでは自らの通貨制度を導入しヴァルナ・ヒュペルピュロンと呼ばれる貨幣が14世紀半ば頃から流通し、ブルガリアとヴェネチアの為替レートは条約により固定されていた。質の高い宝石加工や陶器、皮革、食品加工や他の手工業が栄え、カムチヤ川 (英語版)河口では造船業が発達した。

14世紀、イタリア人の羅針儀海図ではヴァルナはおそらくコンスタンティノープルとドナウデルタの間の重要な港であることを示し彼らは大抵はザゴレ(英語版)と表示していた。ヴァルナは不運にもサヴォワのアメデーオ6世(英語版)より包囲され1366年にブルガリアの要塞は南側のガラタを含め攻略された。1386年、ヴァルナは一時的にドブロジャ専制公(英語版)の首都になり1389年にはオスマン帝国に支配され、1413年からおそらく1444年まで一時的にマヌエル2世パレオロゴスに譲渡されたり、1414年にクリミア・タタール人に略奪された。
ヴァルナの戦い詳細は「ヴァルナの戦い」を参照1444年のヴァルナの戦いの記念物は古代トラキア人の墓地の中に刻まれている。

1444年11月10日、ヨーロッパの十字軍の歴史でも最後の最大規模の戦いが城壁の外側で行われた。オスマン帝国はヴワディスワフ3世率いる2万の十字軍戦士を敗走させ[10] 、コンスタンティノープルへ出帆するため港に集まった。


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