1941年にバルバロッサ作戦で独ソ戦が始まる。ブラウヒッチュは、「来るべきドイツ国民の運命の戦い」のために厳しい措置が必要であるとして、人種差別的なナチスの政策に対する批判をやめるよう軍や司令官に命じた[22]。1941年6月にドイツがソ連に侵攻すると、彼は再び重要な役割を果たし、当初の計画に変更を加えた[17]。友人であり同僚であったヴィルヘルム・カイテルと同様に、ブラウヒッチュはヒトラーがドイツ軍に占領地での殺害対象についてSSと同じ指示を与えたときに抗議せず、後に反ドイツ感情が「特に認められる」場合にのみコミッサールを射殺するよう命じる一連の政令を出した[23]。戦略をめぐりヒトラーとブラウヒッチュは見解の相違が大きくなった。しかしブラウヒッチュはヒトラーの強気の作戦に異論を差し挟むことができず、何度も解任を申し出るようになった。12月にモスクワ攻略に失敗して退却を許さないヒトラーと対立すると、ついに解任された。後任の陸軍総司令官に自ら就任したヒトラーは彼を「役立たずの臆病者」と語った。彼は総統予備役に移されたがヒトラーとは二度と会うことはなかった。またこの頃から、彼は健康を害し始めた。11月に心臓発作を起こすなど事態は悪化した。
ブラウヒッチュはその後軍務に就くことはなく、戦争末期の3年間をボヘミアのプラハ南西ブルディ山地の陸軍演習場内にある狩場で隠棲した。1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件 (7月20日事件) ではかつての同僚数人を非難した。1942年9月26日に旭日大綬章を受章。 1945年8月、ブラウヒッチュは領地で逮捕され、イギリス軍の収容所に収監された[24]。ニュルンベルク裁判では主要戦争犯罪人の裁判に証人として出廷した。ついで自らも主要戦犯として裁判が行われることになった。罪状はバルバロッサ作戦の指揮に関する戦争犯罪であった[24]。しかし、1948年10月18日にハンブルクのイギリス占領下の軍事病院で、裁判を受ける前に気管支肺炎で67歳で死去した[25]。 29歳の時に荘園主の娘エリーザベト・フォン・カルシュテットと最初の結婚をして、一男マンフレート・フォン・ブラウヒッチュと一女シャルロッテ・リュッファーが生まれた。夫妻は1938年に離婚し、同年行政裁判所長の娘と再婚した。甥マンフレートはカーレーサーとして活躍し、1937年のモナコGPで優勝した。 歴史家のヘルムート・クラウスニックは、ブラウヒッチュを「自分の職務の伝統に従った、優れた専門家だが、特にヒトラーに対処するための人格の強さに欠けていた」と評している[25]。イギリスの歴史家イアン・カーショーは、彼を「ヒトラーに怯えた、意気地のない人物」とあまり同情的でない描写をしている[26]。
ニュルンベルク裁判
家族
評価
受賞
鉄十字章
1914年版二級鉄十字章 (1914年9月13日)[27]
1939年版二級鉄十字章略章
1914年版一級鉄十字章 (1915年10月1日)[27]
1939年版一級鉄十字章 (1939年9月30日)[27]
騎士鉄十字章 (1939年9月30日)[28]
剣付きヴュルテンベルク・フリードリヒ勲章(1915年5月7日)[27]
剣付ホーエンツォレルン家勲章(プロイセン王国)(1917年5月15日)[27]
名誉十字戦功章(ザクセン=マイニンゲン公国)(1918年1月2日)[27]
Service Award
名誉十字章 (1934年12月18日)[27]
一級国防軍勤続章
一級ハンガリー功労勲章 (1938年8月20日)[29]
ドイツ赤十字勲章 (1938年9月5日)[29]
聖マウリッツィオ・ラザロ勲章 (1939年1月3日)[27]
白薔薇勲章 フィンランド (1939年3月10日)[27]
黄金ナチ党員バッジ (1939年4月20日)[30]