ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ
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1895年、ブラウヒッチュはポツダム陸軍幼年学校に入学した[4]。幼年学校を卒業後、プロイセン陸軍士官学校に転入し、最終学年では優秀な学生としてトップクラスに属し、兄アドルフと同様にヴィクトリア皇后の給仕として選ばれる。宮廷で皇后に仕えた期間、彼はその後の人生に注目すべきマナーと態度を身につけた[5]1900年ベルリン・シャルロッテンブルクのエリザベート妃近衛擲弾兵第3連隊に一年志願の少尉として入営。同年、歩兵連隊の中尉に任官した[6]が、病気で歩兵になれず翌年近衛野砲兵第3連隊に転属。1903年に砲兵学校で学ぶ。1905年シュパンダウの銃器工場を監督。1908年から翌年まで、第3近衛野砲兵第3連隊第2大隊で副官。中尉に昇進。1909年、陸軍大学で学ぶことなく暫定で参謀本部付となる。1909年から1912年まで、近衛野砲兵第3連隊で連隊副官。1913年、正式に参謀本部に転属し大尉に昇進。
第一次世界大戦

第一次世界大戦勃発時に大尉に昇進した。第16軍団参謀に転じる。1914年から1916年にかけて、ヴェルダンの戦いアルゴンヌの森の戦いに参加した[7]1915年、第34歩兵師団参謀。1917年、皇太子付特務参謀。しかしすぐに総司令部第7課に転属。同年第11歩兵師団参謀。1918年2月、後備第1近衛師団参謀。同年8月、後備近衛軍団参謀となる。ブラウヒッチュは一級鉄十字章ホーエンツォレルン家勲章を授与され、少佐の階級で終戦を迎えた[8]
ヴァイマル共和国

1919年ヴェルサイユ条約によりドイツ軍は強制的に縮小されたが、ヴァイマル共和国の国防軍に採用される。しかし、ブラウヒッチュは参謀本部に籍を置き、砲術の知識を生かす機会を得られなかった。1920年に第2軍管区教育部付参謀となり、のち第6砲兵連隊で部長。翌年には国防省の砲兵科に勤務した[7]。砲兵科では彼のアイデアが採用されと歩兵の組み合わせと協力を強調した[9]1925年、砲兵科での3年間の勤務を経て中佐に昇進。1927年11月1日付で、ブラウヒッチュはドイツ西部で最も強力な駐屯地の一つであるノルトライン・ヴェストファーレン州ミュンスターの第6軍管区(=第6歩兵師団)参謀長に補される[10][11]。翌年、陸軍訓練部を引き継ぎ大佐に昇進[10]1929年、国防省兵務局教育部長に就任。1931年10月、少将に昇進[8]。翌年砲兵総監に任命される。
ナチス・ドイツ

1933年ナチス政権樹立ののち、ヒトラーの軍事的野心を実現するために軍備拡張を始めた[12]1933年2月1日、ブラウヒッチュは東プロイセン軍官区司令官と第1軍管区・第1歩兵師団司令官に補される[13][11]。1933年10月に中将に昇進し、ドイツ再軍備宣言後の1935年には第1軍団司令官に就任。1936年、砲兵大将に昇進し、翌年ライプツィヒに新設された第4集団司令官に任命される。ブラウヒッチュは東プロイセンを気に入っていたが、地元の大管区指導者であるエーリヒ・コッホと衝突した[14]。 コッホもブラウヒッチュも当地の仕事を失いたくないため、2人の抗争は非公式のものにしようとした。そのためベルリンには彼らの対立はほとんど伝わらなかった[14]。数年後、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが、東プロイセン地方のユダヤ人プロテスタントカトリック教会を迫害する目的で、陸軍衛兵を親衛隊員に置き換える計画を知ったブラウヒッチュは、彼との論争に発展した。ブラウヒッチュは、この地域の陸軍部隊をSSに置き換えることを何とか阻止しようとしたが、ヒムラーは彼を侮辱し、ヒトラーにその不一致を知らせた。ブラウヒッチュは自分の任務は果たしたと主張した。
陸軍総司令官ブラウヒッチュとヒトラー(1939年)

1936年砲兵大将に昇進。1938年ブロンベルク罷免事件が起き、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが罷免されると、ヒトラーは1938年2月4日に陸軍最高司令部の推薦によりブラウヒッチュを上級大将に昇進させ、第2代陸軍総司令官に任命した[15]。ブラウヒッチュはナチスの再軍備政策を歓迎していた[16]。ヒトラーとブラウヒッチュの関係は、彼がミュンヘン危機のさなか、妻と別れて愛人を作るかどうかで混乱している間にヒトラーは彼に妻との離婚と再婚を奨励した。ヒトラーは彼に8万ライヒスマルクを貸し、彼が離婚するための費用を確保したほどだ[17]。ブラウヒッチュは金銭面で大きくヒトラーを頼りにするようになった[17]。ブラウヒッチュはルートヴィヒ・ベック上級大将と同様にヒトラーのオーストリア併合チェコスロバキアへの介入に反対したが、ヒトラーの戦争計画には抵抗せず、やはり政治的な活動は控えようとした。しかし1939年4月にブラウヒッチュはヴィルヘルム・カイテル上級大将と共にヒトラーからチェコスロバキア侵攻記念として党の黄金ナチ党員バッジを授与されることになった[18]


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