1933年のナチス政権樹立ののち、ヒトラーの軍事的野心を実現するために軍備拡張を始めた[12]。1933年2月1日、ブラウヒッチュは東プロイセン軍官区司令官と第1軍管区・第1歩兵師団司令官に補される[13][11]。1933年10月に中将に昇進し、ドイツ再軍備宣言後の1935年には第1軍団司令官に就任。1936年、砲兵大将に昇進し、翌年ライプツィヒに新設された第4集団司令官に任命される。ブラウヒッチュは東プロイセンを気に入っていたが、地元の大管区指導者であるエーリヒ・コッホと衝突した[14]。 コッホもブラウヒッチュも当地の仕事を失いたくないため、2人の抗争は非公式のものにしようとした。そのためベルリンには彼らの対立はほとんど伝わらなかった[14]。数年後、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが、東プロイセン地方のユダヤ人、プロテスタント、カトリック教会を迫害する目的で、陸軍衛兵を親衛隊員に置き換える計画を知ったブラウヒッチュは、彼との論争に発展した。ブラウヒッチュは、この地域の陸軍部隊をSSに置き換えることを何とか阻止しようとしたが、ヒムラーは彼を侮辱し、ヒトラーにその不一致を知らせた。ブラウヒッチュは自分の任務は果たしたと主張した。
陸軍総司令官ブラウヒッチュとヒトラー(1939年)
1936年に砲兵大将に昇進。1938年にブロンベルク罷免事件が起き、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが罷免されると、ヒトラーは1938年2月4日に陸軍最高司令部の推薦によりブラウヒッチュを上級大将に昇進させ、第2代陸軍総司令官に任命した[15]。ブラウヒッチュはナチスの再軍備政策を歓迎していた[16]。ヒトラーとブラウヒッチュの関係は、彼がミュンヘン危機
のさなか、妻と別れて愛人を作るかどうかで混乱している間にヒトラーは彼に妻との離婚と再婚を奨励した。ヒトラーは彼に8万ライヒスマルクを貸し、彼が離婚するための費用を確保したほどだ[17]。ブラウヒッチュは金銭面で大きくヒトラーを頼りにするようになった[17]。ブラウヒッチュはルートヴィヒ・ベック上級大将と同様にヒトラーのオーストリア併合とチェコスロバキアへの介入に反対したが、ヒトラーの戦争計画には抵抗せず、やはり政治的な活動は控えようとした。しかし1939年4月にブラウヒッチュはヴィルヘルム・カイテル上級大将と共にヒトラーからチェコスロバキア侵攻記念として党の黄金ナチ党員バッジを授与されることになった[18]。1938年から1941年まで陸軍総司令官を務め、ヒトラーの戦争政策に追従する。第二次世界大戦初期のポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、バルカン半島諸国との戦闘で勝利を収めた。ブラウヒッチュは、ドイツ人の生存区域を確保することが必要だと主張し、ポーランド人に対する厳しい措置を支持した。ダンツィヒで捕らえられたポーランド人捕虜の死刑判決では、彼らの慈悲の訴えを拒否した。フランス戦勝利の後、陸軍元帥に列せられる。1940年12月には、同盟国である日本より航空総監兼航空本部長山下奉文陸軍中将を団長とする大日本帝国陸軍訪独団(ドイツ派遣航空視察団)とベルリンにて会見、「ブラフウィツチ元帥閣下」の鞘書の日本刀を贈られている。
1941年4月初旬のユーゴスラビアとギリシャの迅速な侵攻と占領において、ドイツ軍は約33万7000人の兵員[19]、2000門の迫撃砲[19]、1500門の砲弾、1100門の対戦車砲[19]、875台の戦車と740台のその他の装甲戦闘車輌を投入し、これらはすべてブラフチッチの全体指揮下にあった[20]。4月末までにユーゴスラビアとギリシャの全ての領土はドイツにより占領された[21]。
1941年にバルバロッサ作戦で独ソ戦が始まる。ブラウヒッチュは、「来るべきドイツ国民の運命の戦い」のために厳しい措置が必要であるとして、人種差別的なナチスの政策に対する批判をやめるよう軍や司令官に命じた[22]。1941年6月にドイツがソ連に侵攻すると、彼は再び重要な役割を果たし、当初の計画に変更を加えた[17]。