1923年 離婚。
1930年頃 ベルリンの集合住宅建設に当たった。バウハウス閉鎖後,
1932年事務所にいた山口文象と共にドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。日本の横浜生まれのカナダ人建築家, ウェルズ・コーツ(英語版)が設計したロンドンのモダニズム建築アパート「アイソコン・ビル(英語版)」にマルセル・ブロイヤーらとともに住んでいた。アールフェルトのファグス靴工場
1937年、ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計した[2]
第二次大戦後の母国ドイツにおいても、設計を行う機会を得ている。まず1952年にはベルリンのハンザ地区で行われた国際建築展に参加し、高層住宅を実現させている。さらに、1960年代に、ベルリン南部のノイケルン地区に、グロピウス・シュタット(de)と呼ばれる、集合住宅が建ち並ぶ広さ266haと大規模な郊外住宅地を設計している。
1969年7月5日、マサチューセッツ州ケンブリッジにて86歳で死去。 グロピウスは著書『国際建築』(1925年)で、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張した。1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。1932年にフィリップ・ジョンソンの企画によりニューヨーク近代美術館でインターナショナル・スタイル(国際様式)の展覧会を企画し、建築界の主流になっていった。 アメリカ移住後のグロピウスの実作はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミース・ファン・デル・ローエやSOMの手にゆだねられた。 ハーバード大学建築科長として活躍したが、アルマ・マーラーとのスキャンダルでも知られた。
作品
ベルリンのハンザ地区に建つ高層住宅 ジードルング
グロピウス・ハウス(マサチューセッツ州リンカーン)
メットライフビル
評価
著書(日本語訳)
『国際建築』 貞包博幸訳、中央公論美術出版〈バウハウス叢書1〉、1991年、新版2020年
『バウハウス工房の新製品』 宮島久雄訳、中央公論美術出版〈バウハウス叢書7〉、1991年、新版2019年
『デッサウのバウハウス建築』 利光功訳、中央公論美術出版〈バウハウス叢書12〉、1995年、新版2020年
『生活空間の創造』 蔵田周忠・戸川敬一共訳、彰国社、1958年、再版1976年ほか - 講義録を元にしている。
『デモクラシーのアポロン 建築家の文化的責任』 桐敷眞次郎訳、彰国社、1972年/ちくま学芸文庫(新版)、2013年 - 遺著の評論集。
脚注^ 写真集 『ヴァルター・グロピウス バウハウス1925?26、ファグス工場1911?25』 二川幸夫企画・撮影、デニス・シャープ解説(GAグローバル・アーキテクチュア.70、A.D.A.EDITA Tokyo、1994年)。にも詳しい。
^ 主な作品紹介に、『ヴァルター・グロピウス』 ギルベルト・ルプファー、パウル・ジーゲル、TASCHEN(タッシェン・ジャパン)、2010年。がある
関連項目
バウハウス
ヴァイマルおよびデッサウのバウハウスとその関連遺産群(世界遺産)
ベルリンのモダニズム集合住宅群(世界遺産)
アールフェルトのファグス靴工場(世界遺産)
モダニズム建築
ソビエト宮殿
ヤコーブス・ヨハネス・ピーター・アウト