ヴァッレ・ダオスタの最初の定住者は、ケルト人やリグリア人 (Ligures) であった。彼らの言葉は、この地のいくつかの地名に残されている。少なくとも青銅器時代には営まれていた定住者たちの暮らしは、国立アオスタ考古学博物館にある充実した先史時代の展示に見ることができる。
ローマ人は、アウグストゥス帝時代の紀元前25年頃に先住のサラッシ人 (Salassi) (ケルト系あるいはリグリア系、イタリア系とされる人々)を征服した。ローマ人は戦略的に重要なアルプス越えの交通路の安全を確保するため、都市アウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(現在のアオスタ)を建設し、属州アルペス・ポエニナエ(アルペス・グライアエとも)を置いて、橋や道路の整備を行った。アオスタには保存状態の良いローマ時代の遺跡が中心部に残っている。 西ローマ帝国の崩壊後、この一帯には5世紀にゴート族(東ゴート王国)、次いでブルグント族(ブルグント王国)の勢力が入り、534年にフランク人(フランク王国)がブルグント族の王国を滅ぼしている。553年から563年にかけて東ローマ帝国、568年から575年にかけてランゴバルド人(ランゴバルド王国)がこの地を支配したが、その後フランク人が奪回した。アオスタにあるローマ時代の劇場遺跡 843年、カロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)の子の間でフランク王国が分割されると(ヴェルダン条約)、中部フランク王国(ロタール1世の王国)の一部となる。ロタール1世の没後はその長男ロドヴィコ2世が治めるイタリア王国の一部となったが、ロドヴィコ2世の没後西フランク王国に組み込まれる。その後、ユーラブルグント王国(上ブルグント王国)を経て、アルル王国(ブルグント王国)の一部となった。 ただし、ヴァッレ・ダオスタのうちでも季節的に孤立するような標高の高い地域では伝統的な自治が行われるようになり、外部の権力による掌握も大まかなものであった。諸国家の興亡は、ヴァッレ・ダオスタの住民の自治的な(事実上独立した)社会に大きな変化をもたらすことはなかった。 1032年、ブルグント王家が断絶すると、その称号と領土は神聖ローマ皇帝コンラート2世が継承した。コンラート2世は、サヴォイア伯ウンベルト1世ビアンカマーノ(サヴォイア家の家祖)に、新たにアオスタ伯の称号を与えた。なお、神学者・哲学者として高名なアンセルムスはこの時代(1033年頃)のアオスタに生まれている。この地域では城塞を構えた在地勢力が割拠しており、1191年にサヴォイア伯トンマーゾ1世 (Thomas, Count of Savoy
中世前期
サヴォイア家サン=ピエール城(12世紀)
13世紀半ば、皇帝フリードリヒ2世は、アオスタの伯爵位を公爵位に格上げした。中世を通して、ヴァッレ・ダオスタは封建領主が割拠する状態であり、Gressoney 谷にある Challant 家の城塞群のように、多くの城館が点在していた。12世紀から13世紀にかけて、ドイツ語の一種(アレマン語の方言)であるヴァリス語(あるいはヴァルザー・ドイツ語)を話すヴァルザー (Walser) と呼ばれる人々がGressoney 谷で共同体をつくるようになった。21世紀の現在もいくつかのコムーネではヴァルザーのアイデンティティが受け継がれている。
アオスタ公爵領は、1536年に「フランス語」(中世フランス語)を公用語と定めた最初の政府となった(フランス王国がフランス語を公用語とするのはその3年後である)[4]。フェーニス城(13世紀)
ヴァッレ・ダオスタは、近代イタリア王国の領域ではもっとも古くからサヴォイア家の支配下にあった土地である。11世紀、家祖ウンベルト1世によって始まったサヴォイア家による支配は、サヴォイア伯国が15世紀にサヴォイア公国、18世紀にサルデーニャ王国と名称を改め、19世紀にイタリア統一を果たした近代イタリア王国が第二次世界大戦後に廃止されるまで900年余に及ぶ。例外はフランス王国によって占領された1539年から1563年にかけての期間(イタリア戦争中)と1691年の一時期(大同盟戦争戦争中)、そして1704年から1706年にかけての期間(スペイン継承戦争中)と、後述のフランス革命戦争期のみである。
近代・現代アイマヴィル城
1800年、ヴァッレ・ダオスタはフランス革命戦争に際してフランス共和国によって占領された。フランスによる支配はフランス第一帝政に引き継がれ、1814年まで続いた。フランス統治下では、Doire県のアオスタ郡であった。
20世紀のムッソリーニ政権下ではイタリア化政策 (Italianization) が推進された。この中には、地名をイタリア語に翻訳することや、イタリア語を話す労働者をアオスタに移住させること、分離主義を抑制する運動を育成することなどが含まれる。フランスやスイスへの移民を選択した住民もいた(21世紀の現在もフランスやスイスには「ヴァッレ・ダオスタ人」のコミュニティが存在する)。
第二次世界大戦後、ヴァッレ・ダオスタは特別自治州としての位置づけが行われた。 ヴァッレ・ダオスタ州に属する県はない。イタリアの州の中で、県が属さないのはヴァッレ・ダオスタ州のみである。 かつてはアオスタ県(Provincia di Aosta ヴァッレ・ダオスタ州には74のコムーネがある。主要なコムーネ(人口上位10位)は下表の通り。左端の数字はISTATコードを示す。人口は2011年1月1日現在[2]。 コード自治体名人口
行政区画ヴァッレ・ダオスタ州に属する県はない
県
コムーネ
007003アオスタ34,029
007020シャティヨン4,912
007066サール4,854
007065サン=ヴァンサン4,610
007052ポン=サン=マルテン3,996
007054クアール3,879
007058サン=クリストフ3,347
007031グレッサーン3,314
007063サン=ピエール3,114
007045ニュス2,959
文化
言語