ヴァインハイム
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[3]
隣接する市町村

以下の市町村がヴァインハイム市に隣接する。東から時計回りに列記する。

ビルケナウゴルクスハイマータール(ともにヘッセン州ベルクシュトラーセ郡)、ハイリヒクロイツシュタイナハシュリースハイムヒルシュベルク・アン・デア・ベルクシュトラーセヘッデスハイム(以上、ライン=ネッカー郡)、フィールンハイム(ベルクシュトラーセ郡)、ヘムスバッハ(ライン=ネッカー郡)
市の構成

ヴァインハイム市は、中核都市部と10の市区(Stadtteil)からなる。10の市区とは、ホーエンザクセン、リュッツェルザクセン、オーバーフロッケンバッハ、シュタインクリンゲン、ヴュンシュミヒェルバッハ、リッペンヴァイアー、リッテンヴァイアー、ハイリヒクロイツ、リッチュヴァイアー、ズルツバッハである。市区は、バーデン=ヴュルテンベルク州の市町村法が定める、地区議会とその議長を務める地区長を持つ6つの地区(Ortschaft)を形成する。オーバーフロッケンバッハ市区、シュタインクリンゲン市区、ヴュンシュミヒェルバッハ市区の3市区がまとまってオーバーフロッケンバッハ地区を、リッペンヴァイアー市区、リッテンヴァイアー市区、ハイリヒクロイツ市区がまとまってリッペンヴァイアー地区を形成し、残りの各市区は単独で地区となる。市域全体は、バーデン=ヴュルテンベルク州の市町村法が定める6つの居住管区(Wohnbezirke)を形成する。ホーエンザクセン地区とリッチュヴァイアー地区が一つの居住管区を形成し、残りの地区および中核都市部がそれぞれ居住管区となる。[4]
地域計画

ヴァインハイムは、上級中心マンハイムならびにハイデルベルク地区の中級中心都市である。中級中心都市としてのヴァインハイムが管轄する市町村は、ヴァインハイム自身の他に、ヘムスバッハ、ヒルシュベルク・アン・デア・ベルクシュトラーセ、ラウデンバッハである。
歴史

ロルシュ修道院の土地管理台帳であるロルシュ文書の755年の書類に「Winenheim」についての最初の記録がある。ヴァインハイム(Weinheim)の名前はワイン(Wein)に由来するものではなく、この地方を開墾した人々、ヴィーノ(Wino)の家(Heim)に由来する。ヴィンデック城趾

1000年に、皇帝オットー3世はロルシュ修道院に市場の開催権を授け、1065年にはさらに貨幣鋳造権を認めた。ロルシュ修道院は、所領を防衛する目的で、村の高台にヴィンデック城を建設した。ロルシュの保護者としてライン宮中伯コンラートは、ヴァインハイムと城を要求した。1232年以後、ロルシュ修道院はマインツ司教の管理下に置かれ、このためマインツとプファルツの間で長い権力闘争が行われた。

1250年頃にライン宮中伯は旧市街の近くに、マインツ司教への対抗として新市街を創設した。1264年の仲裁判定でプファルツ側に新市街とヴィンデック城が与えられた。この時、ノイシュタットに対して初めて「都市」という言葉が用いられた。都市権が与えられた事情については伝えられていない。1308年には旧市街も宮中伯領となった。ヴァインハイムは、1368年プファルツ選帝侯の中核地域に組み込まれ、14世紀の終わりからオーバーアムト・ハイデルベルクの管轄下に置かれた。1454年には、それまで行政上分離されていた旧市街と新市街が一つの都市に合併した。1645年頃のヴァインハイム

17世紀のヴァインハイムは三十年戦争ネーデルラント継承戦争プファルツ継承戦争で何度も他国の軍隊により征服され、ヴィンデック城は破壊された。

1698年にプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムは2年間、宮廷、ハイデルベルク大学、貨幣鋳造所、印刷所をヴァインハイムに移した。ヴァインハイム城の大規模な拡張工事計画は実現しなかった。

1803年にプファルツ選帝侯は廃止され、ヴァインハイムはバーデン領となり、ベツィルクスアムトの所在地となった。1848年のバーデン革命では、ヴァインハイムの過激派が鉄道を妨害して列車を脱線させた。このシュトルーフェ暴動の結果、33人のヴァインハイム住民が告訴された。

政治的には、ドイツ帝国が成立した1871年から国民自由党が最有力政党であったが、20世紀の初めに社会民主党(SPD)にその座を逐われた。ヴァイマル共和政下でもSPDが最有力政党の座を保ったが、1932年からは国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)と共産党(KPD)に追いやられた。1933年の帝国議会選挙ではNSDAPが46%、KPDが19%の票を獲得した。

1936年にベツィルクスアムト・ヴァインハイムが廃止され、ベツィルクスアムト・マンハイムと合併した。これが1938年にマンハイム郡となり、1973年1月1日に郡再編の枠組みに従ってライン=ネッカー郡の一部となった。

ヴァインハイム市の人口は1943年に2万人を超えた。このため、1956年4月1日にバーデン=ヴュルテンベルク州の市町村法が発効すると直ちに大規模郡都市となった。
宗教

ヴァインハイムは、元々ヴォルムス司教区に属しており、その首席司祭の所在地であった。プファルツ選帝侯領全域がそうであったように、ヴァインハイムにも宗教革命がもたらされたが、その時期は遅く1565年になってからであった。初めに改革派教会が組織された。1689年からはルター派の教会も創設された。プファルツ選帝侯は1685年から再びカトリックに転じ、カトリック教会が足場を固めた。その比率は1689年の時点で2/7に及んだ。

1806年にバーデン大公領に移行した後、1821年に両プロテスタント系宗派が統一された。ヴァインハイムは教区監督官の所在地であった。その教区は、現在ラーデンブルク=ヴァインハイム教会管区と呼ばれており、22の教会組織がこれに含まれる。ヴァインハイム市内の教会で、この組織に属すのは、ヴァインハイム教会組織(ヨハニス教会、ルカス教会、マルクス教会、ペータース教会からなる)、リュッツェルザクセン教会組織、ホーエンザクセン教会組織、ハイリヒクロイツ=オーバーフロッケンバッハ教会組織、ズルルバッハ・パウル=ゲルハルト教会組織である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef