ヴァインハイム
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1232年以後、ロルシュ修道院はマインツ司教の管理下に置かれ、このためマインツとプファルツの間で長い権力闘争が行われた。

1250年頃にライン宮中伯は旧市街の近くに、マインツ司教への対抗として新市街を創設した。1264年の仲裁判定でプファルツ側に新市街とヴィンデック城が与えられた。この時、ノイシュタットに対して初めて「都市」という言葉が用いられた。都市権が与えられた事情については伝えられていない。1308年には旧市街も宮中伯領となった。ヴァインハイムは、1368年プファルツ選帝侯の中核地域に組み込まれ、14世紀の終わりからオーバーアムト・ハイデルベルクの管轄下に置かれた。1454年には、それまで行政上分離されていた旧市街と新市街が一つの都市に合併した。1645年頃のヴァインハイム

17世紀のヴァインハイムは三十年戦争ネーデルラント継承戦争プファルツ継承戦争で何度も他国の軍隊により征服され、ヴィンデック城は破壊された。

1698年にプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムは2年間、宮廷、ハイデルベルク大学、貨幣鋳造所、印刷所をヴァインハイムに移した。ヴァインハイム城の大規模な拡張工事計画は実現しなかった。

1803年にプファルツ選帝侯は廃止され、ヴァインハイムはバーデン領となり、ベツィルクスアムトの所在地となった。1848年のバーデン革命では、ヴァインハイムの過激派が鉄道を妨害して列車を脱線させた。このシュトルーフェ暴動の結果、33人のヴァインハイム住民が告訴された。

政治的には、ドイツ帝国が成立した1871年から国民自由党が最有力政党であったが、20世紀の初めに社会民主党(SPD)にその座を逐われた。ヴァイマル共和政下でもSPDが最有力政党の座を保ったが、1932年からは国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)と共産党(KPD)に追いやられた。1933年の帝国議会選挙ではNSDAPが46%、KPDが19%の票を獲得した。

1936年にベツィルクスアムト・ヴァインハイムが廃止され、ベツィルクスアムト・マンハイムと合併した。これが1938年にマンハイム郡となり、1973年1月1日に郡再編の枠組みに従ってライン=ネッカー郡の一部となった。

ヴァインハイム市の人口は1943年に2万人を超えた。このため、1956年4月1日にバーデン=ヴュルテンベルク州の市町村法が発効すると直ちに大規模郡都市となった。
宗教

ヴァインハイムは、元々ヴォルムス司教区に属しており、その首席司祭の所在地であった。プファルツ選帝侯領全域がそうであったように、ヴァインハイムにも宗教革命がもたらされたが、その時期は遅く1565年になってからであった。初めに改革派教会が組織された。1689年からはルター派の教会も創設された。プファルツ選帝侯は1685年から再びカトリックに転じ、カトリック教会が足場を固めた。その比率は1689年の時点で2/7に及んだ。

1806年にバーデン大公領に移行した後、1821年に両プロテスタント系宗派が統一された。ヴァインハイムは教区監督官の所在地であった。その教区は、現在ラーデンブルク=ヴァインハイム教会管区と呼ばれており、22の教会組織がこれに含まれる。ヴァインハイム市内の教会で、この組織に属すのは、ヴァインハイム教会組織(ヨハニス教会、ルカス教会、マルクス教会、ペータース教会からなる)、リュッツェルザクセン教会組織、ホーエンザクセン教会組織、ハイリヒクロイツ=オーバーフロッケンバッハ教会組織、ズルルバッハ・パウル=ゲルハルト教会組織である。

カトリック教会は、まずは引き続きヴォルムス司教区に属したが、ブルッフザール司教総代理区が廃止された後、1821年から1827年までには新たに創設されたフライブルク大司教区に属した。ここでも引き続き首席司祭の所在地の地位は存続した。現在、この首席司祭区には14の教区が属している。ヴァインハイム聖ラウレンティウス教会、聖マリア教会、ヘルツ=イェーズ教会(ズルツバッハ支部教会を含む)、聖ヤコブス教会が、隣町ヒルシュベルク・アン・デア・ベルクシュトラーセのロイタースハウゼン洗礼者聖ヨハネ教会とともに、ヴァインハイム司牧会を形成している。

1228年からヴァインハイムにしばしばユダヤ人が住み始め、19世紀に大きなコミュニティを形成した。特に小さな町村からの移住者を中心に形成されたこの組織は、1905年に192人が登録されピークを迎えた。1933年にはヴァインハイムに住んでいた168人以上のユダヤ人が、国家社会主義者の迫害を逃れて、特にアメリカや大都市部へ、移住していった。シナゴーグは1938年に突撃隊によって破壊され、その後すぐに爆破された。残っていた47人のヴァインハイムのユダヤ人は1940年にヴァグナー=ビュルッケル・アクションに基づきGursに送られた。その大部分が、Gursあるいはアウシュヴィッツで殺害された。[5]

二大教会組織の他にも、ヴァインハイムには現在自由教会やその組織が存在している。Bund Evangelisch-Freikirchlicher Gemeinden(バプテスト教会)、ヴァインハイム・Liebenzeller教会、セブンデー・アドベンチスト教会などがそれにあたる。またエホバの証人や新使徒派教会もヴァインハイムにはある。イスラム教のコミュニティは、トルコ・メフラナ・モスクを拠点としている。
市町村合併

以下の自治体がヴァインハイムに合併した。

1972年5月1日: オーバーフロッケンバッハ

1972年6月1日: ズルツバッハ

1972年7月1日: リッペンヴァイアー

1972年8月1日: リッチュヴァイアー

1973年1月1日: ホーエンザクセン、リュッツェルザクセン

人口推移

各時点それぞれでの市域内の人口を記す。数値は課税成績、国勢調査、各時点での公的機関による推計値に基づいている。1817年以降のヴァインハイムの人口推移
行政
市議会

ヴァインハイム市の市議会は5年ごとの直接選挙で選出される37人の議員からなる。これに議長を務める上級市長が加わる。
首長

この市の首長は、1956年4月1日から上級市長の肩書きを持つ。8年ごとの直接選挙で選出される。第二次世界大戦後の市長/上級市長を列記する。

1945年: リヒャルト・フロイデンベルク

1945年 - 1948年: ヴィルヘルム・ブリュック

1948年 - 1966年: ロルフ・エンゲルブレヒト

1966年 - 1986年: テオ・ギーセルマン

1986年 - 2002年: ウーヴェ・クレーフート (
SPD)

2002年 - 2018年: ハイナー・ベルンハルト (SPD)

2019年 - : マヌエル・ユスト(無所属)

紋章

図柄: 基部からせり上がる三角図形で三分割。基部の三角模様は金地に赤いブドウ摘みの台。向かって左は黒地に赤い爪、赤い舌を出し、赤い冠を被った左向き(向かって右向き)金の獅子。向かって右は銀と青の斜め格子模様。

赤いブドウ摘みの台は、1337年の日付がある最も古い印章で既に用いられている意匠である。ブドウつみの台は、地名の一部(Wein=ブドウ、ワイン)からの連想で採用されたと考えられるが、実際には地名のWeinはブドウに由来するものではなく、フランク人の人名Winoに由来するものである。プファルツの獅子とヴィッテルバッハの斜め市松模様は、550年間ヴァインハイムの所有者であったプファルツ選帝侯のシンボルである。現在一般的なこの形と配色の紋章は、1899年に確定された。[6]
友好都市

カヴァイヨンフランスヴォクリューズ県)1958年

ルターシュタット・アイスレーベンドイツザクセン=アンハルト州)1990年

イーモライタリアエミリア=ロマーニャ州)1991年

ラマトガンイスラエルテルアビブ地区)1999年

文化と見所ヴァインハイムのマルクト広場
博物館

ヴァインハイム市の博物館はかつてドイツ騎士団の庁舎であった建物で、ヴァインハイムおよび周辺地域の品を展示している。先史時代からメロヴィング朝時代までの考古学史料では、ネヒステンバッハの青銅器と呼ばれる、骨壺埋葬時代(青銅器時代後期)の76点の日用品が目玉である。この他、中世の入植時代や近代のヴァインハイムの社会史や現在この地域で活躍している芸術家の作品も展示されている。
音楽

ヴァインハイムには、全国的に知られたジャズ・クラブがある。1984年にオープンしたブルース&ジャズ・クラブ「Muddy's Club」である。このクラブは市立図書館内にある。このクラブでは、ウィリー・リトルフィールド、アート・ファーマー、シルヴィア・ドロステ、ローズ・ネイビンガー、アンジェラ・ブラウンらが演奏した。
建築

急勾配の歴史的マルクト広場沿いにある1557年建造の旧市役所、マルクトの泉、17世紀の初めからのレーヴェン薬局は特別な見所である。

1731年建造のプロテスタントの市教会や1911年建造のカトリックの聖ラウレンティウス教会も見応えがある。プロテスタントのペーター教会は1912年にネオロマネスク風のユーゲントシュティール様式で、先代の建物があった場所に建造された。市西部には多面の彩色ガラス壁をもつ1957年建造のマルクス教会がある。


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