ヴァイマル憲法
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特に留意すべき点は、この段階で既に、ヴァイマル憲法第48条(いわゆる、緊急事態条項の1つ)に関して懸念を抱く議員がいたことである[8]。彼等は、大統領権限が強大過ぎて、民主主義を脅かすかもしれないと考えていたが[8]、この懸念は後に的中する。

初代大統領に選出されたフリードリヒ・エーベルト1919年8月11日に調印し制定、8月14日に公布・施行された。
構成
前文

原文:Das Deutsche Volk einig in seinen Stammen und von dem Willen beseelt, sein Reich in Freiheit und Gerechtigkeit zu erneuen und zu festigen, dem inneren und dem auseren Frieden zu dienen und den gesellschaftlichen Fortschritt zu fordern, hat sich diese Verfassung gegeben.

訳:ドイツ民族は、その諸部族の一致のもとに、かつ、ライヒを自由と正義とにおいて新しくかつ確固たるものにし、その内外における平和に奉仕し、そして社会の進歩を促進せんとする意思に心満たされて,この憲法を自らに与えた。
第一主部 国家の構築と目的

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第二主部 ドイツ人の権利と義務

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第137条6項 以前から公法上認められていた宗教団体は、州法の規定を仕様とする納税者名簿に基づく徴税権を有す。

同条7項 一つの世界観を共同体として育むことを使命とする結社は宗教団体とみなす。

第138条1項 法律、条約もしくは特別の授権規範により国家が宗教団体へ行う給付義務は、州の議会が継承する。基本原則は中央が定める。
第三主部 ライヒ大統領と国家省庁

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第48条(英語版) 公安に著しい障害が生じ或いはその虞がある時は、大統領は障害回復のために必要な措置を取り、また武力介入が出来る。このために大統領は基本的人権を一時的に停止出来る。
内容

ヴァイマル憲法の特徴として、人権保障規定の斬新さがある。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、特に義務教育と雇用面での社会権保障を志向する現代憲法への転換がこのヴァイマル憲法によってプログラム規定され、その後に制定された諸外国の憲法の模範となった。当時は世界で最も民主的な憲法とされ、第1条では国民主権を規定している。

体制としては領邦を州へ格下げし中央集権を規定した。その統治制度はおおよそ次のとおりである。

直接選挙で選ばれる国家大統領(任期7年)を国家元首とし、憲法停止の非常大権などの強大な権限を与えた。また、大統領は国家宰相首相)の任免を行うとする半大統領制を初めて採用した。

選挙権は20歳以上の男女に与えられた[9]

大統領は議会の解散権を有し、議会は不信任決議をすることで首相を罷免させることができる。

議会は、国民代表の国家議会(Reichstag)と、諸州代表の国家参議院(Reichsrat)からなる両院制である。

国家議会の選挙区は35、さらにいくつかの選挙区を結合した16の選挙区連合、そして一つの全国区からなる[9]

国家議会の選挙方式は比例代表制で、厳正拘束名簿式である[10]。得票6万票ごとに一人が議員に選出されるため、議員定数は存在しなかった[10]

国家参議院は諸州から送りこまれる代表者から構成される。

司法機関は通常裁判所のほかに国事裁判所がある。

志願兵からなる国軍(Reichswehr)を置き、大統領が直接指揮・監督する。

一定数の有権者による国民請願国民投票など、直接民主制の要素を部分的に採用した。

また、ドイツ統一後も未統一のまま領邦の所有となっていた鉄道を、州に継承させるのではなくドイツ国営鉄道へ移管させる規定がある。「一般交通に利用される鉄道を国家の所有に移す。これを統一された交通施設として管理するのは国家の責任である」という第89条が直接の法的根拠である。移管の時期も第171条で規定された。それによれば、遅くとも1921年4月1日までというスケジュールであった。実際にはちょうど1年早く移管は実現した。買収価格は8つの鉄道合計で390億マルクと概算された。なお資金難により諸州への支払はなされなかった。
問題点

ヴァイマル憲法は、主権者を国民とする・財産に制限をつけない20歳以上の男女平等の普通選挙をおこなう・国民の社会権を承認するなど斬新性があった。だが、有権者の直接選挙で選出された大統領に首相の任免権、国会解散権、憲法停止の非常大権[注釈 1]国軍の統帥権など、かつての皇帝なみの強権が規定された。これらの権限は混乱期にあった共和制成立期においては各種の反乱鎮圧に際して実際に発動された。

制定当時はビスマルク憲法にくらべ、はるかに民主的な憲法とされた。ヴァイマル憲法では首相の指名は大統領の指名のみが条件であったが、議会は首相を不信任することもできた[11]。当時の憲法解釈では首相指名には議会優位説がとなえられており、エーベルト大統領は議会の支持が得られる人物を首相に任命していた。しかし、完全比例代表制の弊害である少数政党乱立を防止するための阻止条項たる最低得票率制限 [注釈 2]がなかったため、ヴァイマル共和政では複数政党による連立内閣となることが一般的で、政党間の連立協議がかえって政局の混乱を増幅することも多かった。選挙制度改革はたびたび議論されたものの、ついに成立しなかった[9]

この情勢を解決するため、首相指名には大統領の権限が優先されるという大統領優位説が次第に浸透するようになった[12]。もともと右翼に近い立場だったヒンデンブルク大統領は、就任当初はエーベルトの手法を忠実に引き継いで、議会で多数を得られる人物を首相に指名していたが、政治・経済の混乱のなかで議会や政党への信頼を失い、1930年に第2次ヘルマン・ミュラー内閣が倒れたあと、議会に基盤を持たないハインリヒ・ブリューニングを後継に指名した。その後はヒンデンブルクが死去するまで大統領の指名のみを基礎とする「大統領内閣」が続くことになる。大統領内閣の首相は議会で多数派を確保できず、法案制定を大統領命令に頼るようになった。ナチ党の権力掌握期に国家社会主義ドイツ労働者党が第一党を占めたにも関わらず、アドルフ・ヒトラーが首相に指名されず、1933年1月30日になってようやく指名されたのも、ヒトラーを嫌っていたヒンデンブルクが首相指名を拒んだためである。
ナチス・ドイツ期のヴァイマル憲法炎上する国会議事堂「国会議事堂放火事件」、「全権委任法」、および「ナチ党の権力掌握」も参照

ヒトラー内閣成立後間もない2月27日、国会議事堂放火事件が発生した。

ヒトラーはヒンデンブルクに迫って民族と国家防衛のための大統領令とドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令の2つの大統領令(ドイツ国会放火事件令)を発出させた。これにより、ヴァイマル憲法が規定していた基本的人権に関する114、115、117、118、123、124、153の各条は停止された。ヒトラーとナチ党はこの大統領令を利用し、反対派政党議員の逮捕、そして他党への脅迫材料とした。また諸州の政府を次々にクーデターで倒し、ナチ党の支配下に置いた。この時点で他の政党には、ナチ党の暴力支配に抵抗するすべはなくなった[13]

この状況下で制定されたのが『全権委任法』である。ヒトラーは憲法改正立法である全権委任法の制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明した[14]。この法律自体ではヴァイマル憲法自体の存廃、あるいは条文の追加・削除自体は定義されなかったものの、政府に憲法に違背する権限を与える内容であった。当時の法学者カール・シュミットはこの立法によって憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと解釈している[15]


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