ヴァイマル共和政
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この新憲法がヴァイマル憲法 (WRV: Weimarer Reichsverfassung) である[41]。ヴァイマル憲法は8月11日に公布された。この憲法において大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。これが法制史における人権概念の萌芽とされており、後に制定された日本国憲法にも影響を与えている。

一方、ドイツが新しい議会と新憲法制定に邁進している間にも、国外では連合国がパリ講和会議において講和条約を策定していた。連合国間の折衝は4月で完了し、講和条件をドイツ代表団に提示した[44]。この講和条約は慣例と異なり、敗戦国のドイツをまったく抜きにして講和条件が決められた他に、戦争の責任はもっぱらドイツとその同盟国にあると断定、巨額の賠償金をドイツに課していた[44]。また、戦争責任者を連合国に引き渡すという前例のない条件も加えられていた[45]

講和条件の過酷さにドイツでは連合国に対する非難が吹き荒れたが、戦争を継続する余力がドイツにない以上受諾する以外に手は残されていなかった[45]。6月22日、ドイツは議会で講和条約を承認した[45]。しかし、シャイデマン首相は条約の内容に絶対的に反対であったため1919年6月20日に辞任、議会は新たにグスタフ・バウアーを新首相に選び、翌21日に発足した新内閣のもとで講和条約の処理が行われた[46][47]。6月28日、新内閣の外相だったヘルマン・ミュラーを全権として、ドイツと連合国との間で、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で講和条約(ヴェルサイユ条約)が結ばれた[46]。このヴェルサイユ条約で、ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。
左右からの攻撃

戦時中に大量発行された戦時公債の償還、軍人の復員費などの膨大な出費、そして産業の停滞による税収減が政府の財政を圧迫していた。バウアー内閣は戦時利得者や富裕層に税金をかけることで補おうとしたが、右派の抵抗にあって実現しなかった。政府は紙幣の増発を行うことで対処しようとしたため、次第にインフレーションが進んでいった。

インフレと不況は国民生活の困窮と混乱を招き、左派勢力によるストライキや暴動が頻発した。4月はじめにはクルト・アイスナー(独立社会民主党)が率いるバイエルン州の政府が共産党によって倒され(厳密に言うと、最初に州政府を倒したのは無政府主義の極左派であり、その時点ではドイツ共産党は政府に参加しなかった。しかし、民心掌握に失敗したと見るや1週間後には共産党が革命を起こして自ら政権をとった)、バイエルン・レーテ共和国が成立した[48]。ノスケ国防相はフライコール、特にエアハルト海兵旅団フランツ・フォン・エップ将軍のエップ義勇軍を派遣し、鎮圧させた。フライコールは共産政権の指導者だけでなく無辜の市民をも虐殺したが、共産主義政権の側でも敗北以前に人質としてとらえていた者を銃殺するなど共に暴力的な行動をとった[49]。もともと保守派の多かったバイエルン州で短期間とはいえ共産主義政権が成立したことは国民の共産主義に対する嫌悪感を募らせ、さらなる右傾化を招き、多くの右派団体・政党を生み出す土壌となる[50]。特にバイエルンに駐屯した軍隊は右翼運動の温床になった[50]。連合国はフライコールの解散を求め、政府も禁止令を出したため1920年頃から解散が始まった。しかし、軍事力を維持する軍と政府の支援と黙認により、一部のフライコールは偽装団体に移行して組織と勢力を温存した。背後の一突き伝説の戯画。シャイデマンとエルツベルガーが兵士の背中を刺そうとしている

この頃、国民議会ではドイツ敗戦の責任を究明するための調査委員会が開かれており、多くの証言者が喚問されていた[51]。11月、証言台に立ったヒンデンブルクは、ドイツ帝国は「背後から.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}匕首(あいくち)(ドイツ革命)で刺された」と発言した[51]。もちろん、この証言が事実に反することは明らかで、実際にはドイツ革命のおこる3ケ月前にルーデンドルフが戦局は絶望的であると言明している[51]。この発言はドイツの「突然の敗北」に不審を抱いていた人々や左派の暴動に不満を抱いていた人々の間に、ドイツ帝国は内部からの裏切りによって敗北したのだという「背後の一突き」伝説を広める事となった[51]。そして、以後、この伝説は右翼勢力にさんざん利用されることになる[51]カップ一揆でベルリンに進軍したエアハルト旅団

1920年3月13日には右派政治家ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始した(カップ一揆)。ノスケ国防相は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍軍務局長ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」と主張して出動命令を拒否した[52]。やむなく政府はドレスデン、さらにシュトゥットガルトへ避難し、カップは新政府樹立を宣言した[53]。しかし、ベルリンからの退去にあたってバウアー政権は官僚や国民に対してゼネストを呼びかけ、カップの政府は機能しなくなった[52]。当初、カップはバウアー政権と妥協しようとしたが完全に拒絶され、なすすべのなくなったカップは3月17日に首相を「辞任する」との声明を出してベルリンから逃亡、一揆は終結した[54]。しかし、ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰、内閣の交代等6項目を求め、ゼネストを解除しなかった[55]。政府はこの条件を受諾し、1920年3月26日、バウアー首相は退陣、翌27日、外相だったヘルマン・ミュラーを首班とする第1次ミュラー政権が発足、ノスケも国防相を解任された(後任はオットー・ゲスラー〈民主党〉)[56][47]。かわって軍の実権を握ったのは、総司令官に就任したゼークトであった[57]。ゼークトは軍の政治的中立を標榜することで政府の軍に対する干渉を排除、国防軍は次第に政府の力が及ばない「国家内の国家」へと変貌していった[58]

この当時はまだ中央政府の影響力が及ばない地方が各地に残っており、そのような地域では極左派の活動が活発だった[59]。極左派の目標は共産主義革命を通じた労働者階級による独裁だったから、彼らの活動は民主主義を著しく傷つけることになった[60]。カップ一揆後もルール蜂起をはじめとする左派の蜂起とそれに対する軍の弾圧は頻発し、社会民主党政府は徐々に支持を失っていった。6月6日に行われた最初の国会選挙で社会民主党をはじめとするヴァイマル連合の勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党ドイツ人民党が大きく議席を伸ばした[61]


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