ヴァイマル共和政
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これが出発点となって後にドイツ共産党が生まれる[32]。しかし敗戦後急速に規模が拡大した同党で、スパルタクス団の勢力は限定的となり、さらに急進的な意見が主流を占めるようになった。ルクセンブルクらが反対したにもかかわらず国民議会選挙のボイコットを決め、暴力革命路線を歩む事になった[33]。オプロイテはこの急進的な路線に反発して共産党に参加しなかった[34]。1919年1月5日、ベルリン警視総監アイヒホルンの解任をきっかけに、参加者20万人にも及んだ大規模なデモが発生した[34]。リヒャルト・ミュラーらのオプロイテ幹部が反対したにもかかわらず、リープクネヒトやレーデブール(独立社会民主党の長老)はこのデモを利用して暴動を起こそうと計画し、革命委員会を設立した[34]。翌1月6日、ベルリンではゼネストが始まり、前日以上の参加者による大規模なデモが発生した[35]。これは暴力革命への一大チャンスではあったが、昨日のデモで軍が労働者側に呼応して立とうとしなかったため、革命委員会はデモ以上の行動をとることを控えた[35]。これにより、革命への道は閉ざされてしまった[35]

一方、同日、エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた[36]。ノスケは旧軍人を組織した武装組織ドイツ義勇軍(フライコール)の編成に着手した他、ポツダムその他から軍隊を呼び寄せ[37]、1月9日から鎮圧が始まった。革命派は次第に鎮圧され、12日には大勢は決まった[38]。1月15日にはルクセンブルクとリープクネヒトが市内の隠れ家に潜んでいたところを逮捕され、連行される途中で惨殺された[38]。これ以降、フライコールの勢力はドイツを左右する大きな力であると認識された。
ヴァイマル憲法成立ヴェルサイユ条約によるドイツの割譲地域

1月19日、予定通り国民議会選挙が行われた[39]。共産党はボイコットしたものの、投票率は82.7%と高率だった[40]。結果は、社会民主党(163議席)・中央党(91議席)・民主党(75議席)が多数を占めた[40]

2月6日からヴァイマルで国民議会が開催され[40]2月11日の大統領選挙(ドイツ語版、英語版)でエーベルトが臨時大統領に選出された[40]。続いて、社会民主党・中央党・民主党による連立政府が形成され、シャイデマンを首相に指名、2月13日、シャイデマン政権が成立した[41][42]。これら3党は全議席数の8割を占め、きわめて安定な政権だった[41]。この3党による連合はヴァイマル連合(ドイツ語版)と呼ばれる[41]

新政府がまずなすべきことは新憲法の制定だった[41]。憲法の草案はエーベルト大統領の委嘱を受け、内相プロイスのもとで作成され[注 1]、議会本会議・委員会での討論を経て若干の修正の後、7月末に本会議で圧倒的多数の賛成で可決された[41]。この新憲法がヴァイマル憲法 (WRV: Weimarer Reichsverfassung) である[41]。ヴァイマル憲法は8月11日に公布された。この憲法において大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。これが法制史における人権概念の萌芽とされており、後に制定された日本国憲法にも影響を与えている。

一方、ドイツが新しい議会と新憲法制定に邁進している間にも、国外では連合国がパリ講和会議において講和条約を策定していた。連合国間の折衝は4月で完了し、講和条件をドイツ代表団に提示した[44]。この講和条約は慣例と異なり、敗戦国のドイツをまったく抜きにして講和条件が決められた他に、戦争の責任はもっぱらドイツとその同盟国にあると断定、巨額の賠償金をドイツに課していた[44]。また、戦争責任者を連合国に引き渡すという前例のない条件も加えられていた[45]

講和条件の過酷さにドイツでは連合国に対する非難が吹き荒れたが、戦争を継続する余力がドイツにない以上受諾する以外に手は残されていなかった[45]。6月22日、ドイツは議会で講和条約を承認した[45]。しかし、シャイデマン首相は条約の内容に絶対的に反対であったため1919年6月20日に辞任、議会は新たにグスタフ・バウアーを新首相に選び、翌21日に発足した新内閣のもとで講和条約の処理が行われた[46][47]。6月28日、新内閣の外相だったヘルマン・ミュラーを全権として、ドイツと連合国との間で、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で講和条約(ヴェルサイユ条約)が結ばれた[46]。このヴェルサイユ条約で、ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。
左右からの攻撃

戦時中に大量発行された戦時公債の償還、軍人の復員費などの膨大な出費、そして産業の停滞による税収減が政府の財政を圧迫していた。バウアー内閣は戦時利得者や富裕層に税金をかけることで補おうとしたが、右派の抵抗にあって実現しなかった。政府は紙幣の増発を行うことで対処しようとしたため、次第にインフレーションが進んでいった。

インフレと不況は国民生活の困窮と混乱を招き、左派勢力によるストライキや暴動が頻発した。4月はじめにはクルト・アイスナー(独立社会民主党)が率いるバイエルン州の政府が共産党によって倒され(厳密に言うと、最初に州政府を倒したのは無政府主義の極左派であり、その時点ではドイツ共産党は政府に参加しなかった。しかし、民心掌握に失敗したと見るや1週間後には共産党が革命を起こして自ら政権をとった)、バイエルン・レーテ共和国が成立した[48]。ノスケ国防相はフライコール、特にエアハルト海兵旅団フランツ・フォン・エップ将軍のエップ義勇軍を派遣し、鎮圧させた。フライコールは共産政権の指導者だけでなく無辜の市民をも虐殺したが、共産主義政権の側でも敗北以前に人質としてとらえていた者を銃殺するなど共に暴力的な行動をとった[49]。もともと保守派の多かったバイエルン州で短期間とはいえ共産主義政権が成立したことは国民の共産主義に対する嫌悪感を募らせ、さらなる右傾化を招き、多くの右派団体・政党を生み出す土壌となる[50]


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