ヴァイマル共和政
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政府はこの条件を受諾し、1920年3月26日、バウアー首相は退陣、翌27日、外相だったヘルマン・ミュラーを首班とする第1次ミュラー政権が発足、ノスケも国防相を解任された(後任はオットー・ゲスラー〈民主党〉)[56][47]。かわって軍の実権を握ったのは、総司令官に就任したゼークトであった[57]。ゼークトは軍の政治的中立を標榜することで政府の軍に対する干渉を排除、国防軍は次第に政府の力が及ばない「国家内の国家」へと変貌していった[58]

この当時はまだ中央政府の影響力が及ばない地方が各地に残っており、そのような地域では極左派の活動が活発だった[59]。極左派の目標は共産主義革命を通じた労働者階級による独裁だったから、彼らの活動は民主主義を著しく傷つけることになった[60]。カップ一揆後もルール蜂起をはじめとする左派の蜂起とそれに対する軍の弾圧は頻発し、社会民主党政府は徐々に支持を失っていった。6月6日に行われた最初の国会選挙で社会民主党をはじめとするヴァイマル連合の勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党ドイツ人民党が大きく議席を伸ばした[61]。社会民主党は選挙前に持っていた議席の3分の1以上を失い、6月8日、ミュラー首相は辞任、社会民主党が人民党との協力を拒否したため、6月25日、中央党と民主党と人民党の3党によるコンスタンティン・フェーレンバッハ内閣が成立した[61][47]。10月には独立社会民主党がコミンテルンへの参加をめぐって分裂し、一部が共産党に移った[62]

1921年3月に共産党はコミンテルンのクン・ベーラの指導によって中部ドイツのマンスフェルトを占領する中部ドイツにおける1921年3月行動(ドイツ語版)を起こした。この一揆は軍によって直ちに鎮圧されたが、ドイツ共産党に対するコミンテルンの支配は強まっていった。
賠償金への不満「第一次世界大戦の賠償」も参照1922年6月27日、国会で行われたラーテナウの葬儀

ヴェルサイユ条約によってドイツに課された賠償金の総額を決める賠償会議は1920年初頭以来何度も開かれてきたが、最終的に1921年3月から行われたロンドン会議において決定された[63]。その金額は1320億金マルク、具体的には毎年20億マルクと輸出額の26%を[63]30年間支払う方式による返済が定められた。さらに、そのうちの最初の10億マルクを25日以内に支払えとドイツに通告してきた[63]。1921年5月4日、フェーレンバッハは受諾不可能として辞職し、かわって5月10日に就任したヨーゼフ・ヴィルト(中央党)のもとで受諾された[63][64]。ヴィルト政権では、人民党が抜け代わりに社会民主党が入ったのでワイマル連合が復活した[63]。なお、10月22日に第1次ヴィルト内閣は辞職したが、内閣改造を経て同月26日、第2次ヴィルト内閣が成立している[64]

ヴィルトは条約を遵守する「履行政策」をとって連合国の信頼を得ようとした[63]。しかしこの莫大な賠償金はドイツの経済を苦しめ、さらにヴェルサイユ条約への不満を強めることになった。3月20日にはオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われ、ドイツ帰属派が多数(60%以上)を占めた[65]。しかしポーランド帰属派が反対して暴動を起こし、両国の間で戦闘が起こった(シレジア蜂起[66]国際連盟はオーバーシュレジエンを分割して解決する事にしたが、地下資源の産出地をポーランドに組み入れるように線引きしたため、ドイツ人が多数を占める地方もポーランド領となった[66]。これはドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感をさらに高めさせた[66]。8月には休戦協定に署名し、バウアー内閣で蔵相を務めたマティアス・エルツベルガーがエアハルト旅団の流れをくむ極右テロ組織コンスルの手によって暗殺された[67]。エルツベルガーは、戦時中に平和決議を提唱したこと、コンピエーヌの休戦条約を調印したこと、第1次大戦後に戦時利得者に大幅課税をしたことなどのために右翼から憎悪の対象にされていた[67]。そして、なによりユダヤ人であったことから反ユダヤ主義が根付いていた右翼勢力の暗殺対象にされたのである[67]

一方で連合国の間でも賠償金の支払方法については議論があり、特にイギリス首相のロイド・ジョージはドイツ経済の破綻とそれに続く共産革命を恐れていた[68]。1922年なって賠償支払いの再検討が行われ、カンヌ会議(1月)やジェノア会議(4月 - 5月)において議論された[68]。ジェノア会議にはドイツのヴァルター・ラーテナウ外相が出席を認められ、またソビエト連邦ゲオルギー・チチェーリンが参加した[68]。この会議中にラーテナウとチチェーリンは協議し、4月16日にはソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定めたラパッロ条約が締結された[69]。これはポーランドとの紛争を抱えていた両国の利害が一致した事、また旧帝政時代の債務返済を拒否しようとするソビエトと、ソビエトへの賠償支払いによる賠償金の増加を恐れたドイツの利害が一致したものである[70]。またゼークトはヴェルサイユ条約の軍備制限から逃れるために、ソビエト軍と秘密協定を結び、ソビエト軍の再建を支援するとともに、ロシアにおいて秘密訓練や兵器の生産を行った[71]。軍や外務省にはソ連と結ぶことで西側連合国に対抗しようとする東向き政策を志向する動きがあり、ソ連との連絡はラデックを通じてひそかに行われていた[72]

ラーテナウは賠償金の減額のためにあえて東向き政策に同調したが、反共産主義の立場をとる右派から激しい非難を受けた。このため6月24日、ラーテナウはエアハルト海兵旅団配下の手によって暗殺された[67][73]。ラーテナウの殺害は大変むごたらしいもので、オープンカーで自宅から外務省へ出勤する途中、後ろをつけてきた自動車から機関銃で乱射されたあげく手りゅう弾を投げ込まれ、体は四分五裂にされた[67]。前年の8月26日には、同じくユダヤ人だったエルツベルガー元蔵相がコンズルの手で暗殺されているなど[74][75]、この頃は右翼の準軍組織によるテロリズムが大手を振っていた。

ラーテナウの葬儀でヴィルト首相は「敵は右側にいる」という演説を行い[注 2][76]、反政府活動への対処を始めた。エーベルトは「共和国保護の緊急令」を発し、7月21日に「共和国保護法(ドイツ語版)」として法制化された[76]


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