ヴァイマル共和政
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ザールラント[注 11]1.910,49768.000402ザールブリュッケン
ドイツ国468.116,1362.410.619134ベルリン

文化詳細は「ヴァイマル文化」を参照

20世紀初頭に始まった表現主義運動はこの時代に大きく開花し、その大きな対象の一つが映画であった。「カリガリ博士」、「メトロポリス」など映画史に残る作品や、フリッツ・ラングエミール・ヤニングスら名監督、マレーネ・ディートリヒに代表される大スターも多く生み出された。

音楽では表現主義の最盛期は第一次世界大戦を機に終了しており、ヴァイマル共和制時代には十二音技法や、表現主義への反動から生まれた新即物主義新古典主義が主流となった。オーストリアから移住してきたフランツ・シュレーカーアルノルト・シェーンベルクエルンスト・クルシェネクのほか、パウル・ヒンデミットクルト・ヴァイルハンス・アイスラーなどの作曲家が活躍。クルシェネクの『ジョニーは演奏する』、ワイルの『三文オペラ』はカバレット文化の影響を受けた時事オペラ(英語版)の典型的な例で、大きな成功を収めた。演奏家では、ブルーノ・ワルターヴィルヘルム・フルトヴェングラーエーリヒ・クライバーオットー・クレンペラーなどの指揮者が活躍した。

美術の分野では表現主義の影響を受けた構成主義新即物主義建築の分野ではヴァルター・グロピウスミース・ファン・デル・ローエらによるバウハウス運動も台頭した。

しかしナチスが政権を掌握すると、この時代に生まれた新しい芸術はナチスによって退廃芸術とされて大きく抑圧され、またユダヤ系や反体制派の演奏家や芸術家、建築家も迫害され、多くの者が亡命を余儀なくされたり活動を停止したりしていった。
軍事「ヴァイマル共和国軍」も参照

ヴェルサイユ条約によって軍備には強い制限がかけられていたが、軍や共和政の指導者は秘密裏に軍事力を維持しようとした。プロイセン王国以来の伝統を持つ参謀本部も禁止されたが、兵務局という名で維持された。

また外貨獲得やドイツの軍事ノウハウや技術力を維持・向上するために、軍事援助や武器輸出も活発に行われた。中華民国ボリビア等に対する援助は、日中戦争チャコ戦争で活用された。
フライコール詳細は「ドイツ義勇軍」を参照「黒い国防軍」も参照

退役軍人の一部はフライコールやその偽装団体に流入したが、これは兵力を維持するための準軍隊という側面もあり、現役軍人が指導的立場をとる事も多かった。後に政治団体化し、大きな影響力を持ったものには鉄兜団が知られている。

また、当時の政治活動では対立勢力による暴力的妨害行為が日常茶飯事であり、彼らの武力は政治に不可欠のものとなった。このため政党も準軍事組織を保有しており、社会民主党の国旗団、共産党の赤色戦線戦士同盟、ナチ党の突撃隊親衛隊が代表的なものとされる。この団体は相互に武力衝突やテロを繰り返し、治安上の重大な問題となった。これらの団体はしばしば禁止や制限措置がとられたが解消される事は無く、ナチス・ドイツの成立まで共和政の宿痾として残る事になる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 正確に言うと、新憲法の草案作成はシャイデマン政権以前の社会主義政権の時点で既に始められていた[43]。人民委員政府は公法学教授だったプロイスを内務省次官として招き、プロイスに憲法草案の作成を依頼、1月初めに草案が提出された[43]
^ 林『ワイマル共和国』ではラーテナウの葬儀で演説したことになっているが、『ドイツ史』3、p.146では国会での演説上の発言である。
^ 林『ワイマル共和国』では共和国保護法が効果を現したように書かれているが、『ドイツ史 3』p.146では、実際には「十分な効果をあげなかった」と書かれている。当時の裁判官は帝政支持派・保守派が大多数で、裁判結果が右翼に甘く左翼に厳しいものになったのが原因としてあげられている[78][74]
^ 林『ワイマル共和国』p.95では、ヴィルト内閣瓦解の原因は、社会民主党が左傾化したため、人民党との連立に失敗したからだと書かれている。
^ マルクス政権も不安定で、1924年5月26日、マルクスが辞任したことで第1次マルクス内閣は倒壊、6月3日には第2次マルクス政権が発足したが、結局それも半年しかもたなかった[98]。なお、マルクス政権はルター政権崩壊の後に再登場する。
^ 規定では、第1回目の投票に立候補していなくても、第2回目の投票に立候補できた[103]
^ 1925年12月5日には第1次ルター内閣が辞職[98]、翌1926年1月20日に第2次ルター内閣が成立したが[98]同年5月12日には第2次ルター内閣は辞職[98]、首相職は再びマルクスがつとめることになった[98]。マルクス内閣は比較的長保ちした部類で、同月16日、第3次マルクス内閣が成立[98]、同年12月17日、第3次マルクス内閣辞職[98]、1927年1月29日、第4次マルクス内閣が発足したが[98]、1928年6月12日、第4次マルクス内閣は倒壊[106]、その後は、再びヘルマン・ミュラーが政権を担い、同月28日、第2次ミュラー政権が発足した[106]
^ エーベルト大統領の時代には大統領緊急令は135回発令されている[142]。しかし、その内容は、ほぼ憲法の趣旨に沿ったものである[142]
^ この黙認政策は「寛容政策」とか「より小さな悪論」と呼ばれた[150]
^ 資料によっては日時が多少ずれている。


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