ヴァイマル共和政
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10月10日、第2次ブリューニング内閣が成立した[156][注 10]。しかし、政権から国民党が離脱したので国会基盤は更に弱くなり、ブリューニングが首相と外相を、グレーナーが国防相と内相を兼務する厳しい組閣だった[156]。また実際に国会の支持が全く得られなく、内閣への信任票が125に対して、不信任が577票もあるという状態だった[158]。結果として、ブリューニング内閣は大統領の支持だけが頼りという隘路に入っていった。この頃から国会で議決されない大統領令による立法が増加し、1931年には大統領緊急令の数が国会採択の立法の数を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5となった[159]

10月11日、アルフレート・フーゲンベルクの主唱でドイツ国家人民党、ナチス、鉄兜団等右派による反ブリューニング戦線の決起集会が開かれた[160]。この時の極右団体による合同集会は後にハルツブルク戦線との名前で記憶されるようになる[160]。会場には旧帝国皇族、ゼークトシャハトらが集まり盛会となったが、このハルツブルク戦線はヒトラーが乗り気でなかったために実際の影響力は乏しいものであった[161]。ナチスは単独での政権掌握を狙っており、突撃隊も活発にテロ活動を行った。この後ブリューニングは経済の悪化を理由に再度の賠償問題解決のための交渉を行い、1932年1月にスイスローザンヌ会議を開く事が合意された[155]。しかし、英仏の都合で会議が半年延期されている間にブリューニングは失脚してしまいローザンヌ会議でドイツに有利な条件で賠償問題を解決する道は水泡に帰した[155]

1932年春には大統領の任期切れが迫っていた[162]。ヒンデンブルクは選挙戦を厭って信任投票による再選を願っていたが、結局選挙戦が行われる事になった(1932年ドイツ大統領選挙)。社会民主党は共和派の大統領候補としてヒンデンブルクを推すことに決定、一方、右翼のフーゲンベルクは鉄兜団副団長のデュースベルク(選挙戦の途中で離脱)を、共産党はエルンスト・テールマンを推した[163]。ヒトラーはドイツ国籍の問題から立候補に問題を抱えていたが、ヴィルヘルム・フリックの仲介によりブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在公使館付参事官になるという形式(公務員になった者にドイツ国籍を付与する)を取ってぎりぎりでドイツ国籍を取得し(ドイツ語版)、同じく大統領選に臨んだ[163][164]

3月13日に行われた一次投票でヒンデンブルクは最多得票を獲得したものの、わずか0.4%の不足で過半数には及ばなかった[165]。4月10日の二次投票で再選が確定したものの、2位となったヒトラーの影響力拡大は誰の眼にも明らかとなった[166]。この選挙戦はかつてヒンデンブルクを支持した右派がヒトラー支持に回り、ヴァイマル連合をはじめとする反ヒンデンブルク派だった政党がヒンデンブルクを支持するという、前回の大統領選挙と逆の構図となった[167]。この頃ヒンデンブルクはかなり老衰しており、側近(シュライヒャー、ハンマーシュタイン、官房長官オットー・マイスナー、農相オルゲンブルク=ヤヌシャウ(英語版)、息子のオスカー・フォン・ヒンデンブルクら)によって簡単に動かされるようになっていた[168][169]

4月13日、国防相兼内相となっていたヴィルヘルム・グレーナーは、突撃隊親衛隊の禁止命令を出した[170]


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