ヴァイマル共和政
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大統領緊急令は、ヒンデンブルク大統領下ではそれまで1度も発令されたことがなかった大統領権限で[141][注 8]、組閣に当たって、ブリューニングはヒンデンブルク大統領に事前に、大統領緊急令行使の保証を求めていた[141]

ブリューニング内閣の船出はまずまずで、政権成立直後に社会民主党などが提出した内閣不信任案を、反対252票賛成187票で否決、内閣は信任された[143][141]。しかし、世界恐慌の影響は深刻で財源不足を補うために次々と増税のための立法措置を取らざるを得なくなった[144]。一方、失業者は300万人を越えていた[141]

ブリューニングは全面的な増税、さらに失業保険の1%引き上げを策定した。7月16日にこの法案が否決されると、ヒンデンブルク大統領は大統領緊急令としてこの法案を施行させた[145]。しかし社会民主党が大統領令の取り消しに動き、国会は取り消しを僅差で可決した[145]。この時の予算審議でブリューニング政権は少数与党に転落、ブリューニングは国会を解散せざるを得なくなった[143]。さらに国会の解散中に、若干の修正を施したうえでふたたび大統領緊急令によって増税を行った[145]

大統領と国会とのこの応酬は問題となった。特に問題視されたのが、国会解散中に大統領緊急令を発して、一度国会が否決した法案を復活させた点で、違憲の可能性があるとの理由で法学者から批判の声が上がり、世論の反発も大きかった[146]

9月14日に国会議員選挙の投票が行われたが、この選挙で107議席を獲得して第2党に躍進したのがナチスだった(第1党は社会民主党で143議席獲得)[147]。それ以前のナチスの議席数が12であったことを考えれば、これはすさまじい躍進だった[147]。それ以外にも、ドイツ共産党が77議席獲得して第3党に食い込んでいる[147]

ブリューニングはナチ党と手を組むことには否定的だったが、周辺の人間の中には政府に取り込むことでナチスを懐柔しようと考えるものも出てきた[148]。それでもブリューニングは、ナチスの敵意を減らし、微妙な外交問題である賠償金の減額の妨げにならないようにするため、1930年10月5日、トレヴィラヌス(英語版)大臣のアパートでヒトラーと極秘に会談した(トレヴィラヌスの他にもフリックグレゴール・シュトラッサーが同席)[148]。ブリューニングはヒトラーに政府の外交方針の微妙さを説明したが、ヒトラーにはその微妙さを理解する能力が欠けており、ブリューニングの言ったことも理解していなかった[148]。代わりにヒトラーがやったことと言えば、ブリューニングらの前での1時間にわたる、ドイツ共産党や社会民主党を抹殺せよとか、フランスはドイツの仇敵であるとか、ロシアはボルシェビキの故郷であるとかいった粗野な演説だった[148]。会談は実りのないものだっただけでなく、政府の外交方針は極秘であるから外部に漏らすなと言われたにもかかわらず、ヒトラーはその大要をすぐに公開した他、ナチスの海外新聞局長だったエルンスト・ハンフシュテングルがアメリカ大使にもリークするという大失態までついた[148]。当然のこととして、ヒトラーはブリューニングを激しく攻撃するようになった[148]。その一方で社会民主党はナチスを警戒してブリューニングの政策を言わば黙認するようになった[149][注 9]。各州での選挙でもナチスが躍進し、民主主義体制は危機を迎えた。
ブリューニング内閣崩壊1932年4月10日、大統領選挙の投票を済ませて出るブリューニング(中央)

ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチスの躍進は、ドイツに対する諸外国の信用を一気に低下させた。このため海外資本の引き揚げはますます顕著となり、1930年末には失業者が400万人を超えた[151]。このような情勢下でブリューニングの増税政策はますます支持されなくなっていった。

ブリューニングは外交上の成果を上げるため、1931年3月23日、オーストリア関税同盟を結んだ(独墺関税同盟事件[152]。しかし、1922年にオーストリアが国際連盟の仲介による経済援助を各国から受けた際に、オーストリアの経済的独立を脅かすような取り決めを他の一国と結ぶことを禁ずる規定を含んだ条約を各国と結んでおり、それに抵触すると反発する国が現れた[152]。実際には、この関税同盟がオーストリアが結んだ条約の違反であると言い切れるわけではなかったが、オーストリアに融資する国としては最大だったフランスは大いに気分を害した[152]。フランスは、関税同盟についてドイツ・オーストリアに抗議、融資の引き揚げを恐れたオーストリアは関税同盟の破棄を考えざるを得なかった[153]。そして実際にフランスはオーストリアから資本を引き揚げたため、5月8日にはオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルト(ドイツ語版)が破綻した[153]。同銀行はヨーロッパ全土で取引をしていたため、この銀行破綻はドイツやオーストリアのみならず、ヨーロッパ全土の経済に打撃を与えた(世界恐慌[153]。賠償支払いはもはや不可能であり、アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは6月19日に西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言した(フーヴァーモラトリアム[154]。しかしこの発表によってもドイツ経済の悪化は止まらず、企業や銀行の破綻が相次いだ[155]。また関税同盟も9月に常設国際司法裁判所によって違法と判断されたため成立しなかった[153]

1931年10月3日、ユリウス・クルティウス(英語版)外相は独墺関税同盟の失敗により引責辞任、ルール工業界も国民党に対してブリューニング内閣の信任を撤回するよう圧力をかけ始め、内閣改造を大統領に要求する動きも出てきた[156]。ブリューニングは大統領に辞任を申し出たがヒンデンブルクは、保守色を強めるとの条件を付けて組閣をブリューニングに再委任、「議会と独立に」内閣を作る事も改めて指示し、大統領内閣としての性格が強まった[156][157]。10月10日、第2次ブリューニング内閣が成立した[156][注 10]。しかし、政権から国民党が離脱したので国会基盤は更に弱くなり、ブリューニングが首相と外相を、グレーナーが国防相と内相を兼務する厳しい組閣だった[156]。また実際に国会の支持が全く得られなく、内閣への信任票が125に対して、不信任が577票もあるという状態だった[158]。結果として、ブリューニング内閣は大統領の支持だけが頼りという隘路に入っていった。この頃から国会で議決されない大統領令による立法が増加し、1931年には大統領緊急令の数が国会採択の立法の数を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5となった[159]

10月11日、アルフレート・フーゲンベルクの主唱でドイツ国家人民党、ナチス、鉄兜団等右派による反ブリューニング戦線の決起集会が開かれた[160]


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