この後も政党の離合集散が相次いだために政権は不安定であり、ルター、第二次マルクスと短命の内閣が続いた[105][注 7]。しかし右派の期待を集めていたヒンデンブルクが憲法を遵守する姿勢をとったため、いずれの政変の際も議院内閣制は守られた[105]。さらに彼の名声が独立的な立場をとろうとするゼークトの権威を相対的に低下させた[107]。さらに1926年の秋季演習に皇帝の孫ヴィルヘルムを無断で招待した事が問題となり、ゼークトは罷免された[108]。これにより軍の政治介入はしばらくの間抑えられる事になった。
1925年には共産党がドイツ帝国構成諸国旧君主の財産接収(ドイツ語版)を提案した[109]。これは国会で直ちに否決されたが、共産党は国民投票にかけるよう要求した[109]。ヴァイマル憲法では全有権者の一割が賛成の署名を行った法律が否決された場合は、国民投票にかけられるという規定があった[109]。共産党は社会民主党の党員に働きかけ、社会民主党を接収賛成に回らせた[109]。しかし1926年に行われた投票では両党が共同しても1500万票しか獲得できず、過半数の2000万票には及ばなかった[109]。この結果は左派勢力の限界を示すとともに、社会民主党に対する保守層の反感を高める事になった[110]。
また、1928年度の予算編成時にも問題が起こった。海軍はヴェルサイユ条約の制限をクリアする装甲艦、ポケット戦艦の開発を要求したが、建造費として計上された900万ライヒスマルクが過大であるとして、社会民主党、民主党、共産党は反対した[111]。1928年5月の選挙で社会民主党は「軍艦より子供の給食を」をスローガンとする選挙キャンペーンを行った[112]。選挙の結果、社会民主党や左派政党は躍進し、6月28日には社会民主党主導の第二次ミュラー内閣が成立した[113]。しかし、軍の強い要望でミュラー内閣はポケット戦艦の予算を復活させた[114]。このため選挙キャンペーンで軍艦反対を唱えていた社会民主党が反対にまわり、内閣に参加していた社会民主党閣僚も投票では反対に回った[115]。この経緯は社会民主党に対する信頼をさらに傷つけることになった[115]。また選挙には敗北した国家人民党もアルフレート・フーゲンベルクら右派の勢力が拡大していった。
外交面ではいわゆる「シュトレーゼマン外交」により、ドイツの国際的地位は回復しつつあった。1925年10月にはロカルノ条約が締結され、ヨーロッパにおける安全保障体制、「ロカルノ体制」が成立した。1926年4月24日には独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結され、9月10日には国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となった。さらにラインラントに置かれていた占領軍も一部撤兵し、民間航空の復活と飛行機製造も許可された。
経済面は好況が続き、1926年のリストラによって一時増大した失業率も1928年には5%台に回復[116]、労働条件も飛躍的に改善された。この相対的な安定期は黄金の20年代(ドイツ語版)と呼ばれている。この好景気をもたらしたのはアメリカ資本による資金投入であったが、大半が短期信用によるものであり、本国の事情によってはいつ引き上げられるかわからないものであった[117]。