ヴァイマル共和政
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しかし連立交渉はうまくいかず、マルクス首相は12月15日に辞職[注 5]、翌1925年1月15日にハンス・ルター内閣が成立するまで議会は空転した[99][98]

この最中、エーベルト大統領が戦争中にストライキに参加したのは国家に対する反逆であるというキャンペーンが行われた[100]。あるナチ党員が、エーベルトが1918年1月にストライキに参加していたことが国家反逆罪にあたると非難したことを、ある地方新聞が大々的に取り上げて宣伝したのがきっかけだった[100]。エーベルトはこれを誣告であるとして訴え、裁判には勝訴した (マルデブルク裁判)[100]。しかし裁判長はエーベルトが反逆を行った事は事実であると認定した[100]。このためエーベルトは右派から反逆者として攻撃された[101]。愛国者を自認していたエーベルトにとってこれは耐え難い屈辱であり、健康状態を悪化させる一因になった[101]。1925年2月28日にエーベルトは死去し、大統領選挙が行われる事になった[101]。詳細は「1925年ドイツ大統領選挙」を参照

3月25日に大統領選挙が行われた。国家人民党・人民党の押すカール・ヤレスは38%の票を獲得し首位となったが、当選には過半数の票が必要であったため、当選には至らなかった。社会民主党・中央党・民主党のヴァイマル連合は統一候補としてマルクス元首相を立て、大統領の座を確保しようとした[102]。ヤレスでは対抗できないと考えた右派は、かつての参謀総長ヒンデンブルクを新たな候補として擁立した[注 6][103]。第二回投票では最多得票者が当選となるため、ヒンデンブルクが、2位のマルクスと約90万票差で当選した[102]。このヒンデンブルクの勝利はバイエルン人民党がヒンデンブルクの支持に回ったことと共産党が独自候補に固執したことが原因とされる[104]

この後も政党の離合集散が相次いだために政権は不安定であり、ルター、第二次マルクスと短命の内閣が続いた[105][注 7]。しかし右派の期待を集めていたヒンデンブルクが憲法を遵守する姿勢をとったため、いずれの政変の際も議院内閣制は守られた[105]。さらに彼の名声が独立的な立場をとろうとするゼークトの権威を相対的に低下させた[107]。さらに1926年の秋季演習に皇帝の孫ヴィルヘルムを無断で招待した事が問題となり、ゼークトは罷免された[108]。これにより軍の政治介入はしばらくの間抑えられる事になった。

1925年には共産党がドイツ帝国構成諸国旧君主の財産接収(ドイツ語版)を提案した[109]。これは国会で直ちに否決されたが、共産党は国民投票にかけるよう要求した[109]。ヴァイマル憲法では全有権者の一割が賛成の署名を行った法律が否決された場合は、国民投票にかけられるという規定があった[109]。共産党は社会民主党の党員に働きかけ、社会民主党を接収賛成に回らせた[109]。しかし1926年に行われた投票では両党が共同しても1500万票しか獲得できず、過半数の2000万票には及ばなかった[109]。この結果は左派勢力の限界を示すとともに、社会民主党に対する保守層の反感を高める事になった[110]

また、1928年度の予算編成時にも問題が起こった。海軍はヴェルサイユ条約の制限をクリアする装甲艦ポケット戦艦の開発を要求したが、建造費として計上された900万ライヒスマルクが過大であるとして、社会民主党、民主党、共産党は反対した[111]1928年5月の選挙で社会民主党は「軍艦より子供の給食を」をスローガンとする選挙キャンペーンを行った[112]。選挙の結果、社会民主党や左派政党は躍進し、6月28日には社会民主党主導の第二次ミュラー内閣が成立した[113]。しかし、軍の強い要望でミュラー内閣はポケット戦艦の予算を復活させた[114]。このため選挙キャンペーンで軍艦反対を唱えていた社会民主党が反対にまわり、内閣に参加していた社会民主党閣僚も投票では反対に回った[115]。この経緯は社会民主党に対する信頼をさらに傷つけることになった[115]。また選挙には敗北した国家人民党もアルフレート・フーゲンベルクら右派の勢力が拡大していった。

外交面ではいわゆる「シュトレーゼマン外交」により、ドイツの国際的地位は回復しつつあった。1925年10月にはロカルノ条約が締結され、ヨーロッパにおける安全保障体制、「ロカルノ体制」が成立した。1926年4月24日には独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結され、9月10日には国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となった。さらにラインラントに置かれていた占領軍も一部撤兵し、民間航空の復活と飛行機製造も許可された。

経済面は好況が続き、1926年のリストラによって一時増大した失業率も1928年には5%台に回復[116]、労働条件も飛躍的に改善された。この相対的な安定期は黄金の20年代(ドイツ語版)と呼ばれている。この好景気をもたらしたのはアメリカ資本による資金投入であったが、大半が短期信用によるものであり、本国の事情によってはいつ引き上げられるかわからないものであった[117]。さらに投入先の多くが公共事業であり、公務員の人件費が増大する結果を招いた[117]。さらに1927年の失業保険法に代表されるヴァイマル共和政下の手厚い福祉政策も、国家予算の膨大化を招く事になる[118]
世界恐慌

1929年2月、オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金の支払い方法を検討する委員会が設置され、「ヤング案」を策定した[119]。6月に調印が行われたこの案は、ドーズ案以上に支払いを緩和し、賠償金支払いのための外債の利子も賠償金に含まれるよう定義されたため、実質的な賠償金額の削減となった(賠償金の支払いを最初の3年間は低く抑えると共に、総額もドーズ案より約17%減額する)[119][120]。さらに連合国によるドイツ経済管理機関はすべて撤廃され、ラインラントからの連合軍撤退も決定された[119]。しかし、その代償として完済まで59年(最初の37年間は年平均20億マルクの支払い、その後の22年間はそれよりもずっと少額の支払い)もかかるという副作用もあった[120][119]。フーゲンベルクら右派は子孫に屈辱を残すものだとして猛反発した。

この反対者の中には政府特使としてヤング案調印に参加したシャハトも含まれていた[121]。シャハトには実行力があり確かに優れた財政家ではあったが、同時に個人的な野心と処世術だけで動く人間で[122]、この時期から急速に右傾化し、右翼の人間と手を結ぶようになっていた[123]

一方、フーゲンベルクは民間軍事団体鉄兜団フランツ・ゼルテ、さらにナチスのアドルフ・ヒトラーと連携して、ヤング案反対闘争を開始した[124]


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