1924-1930年(この記事でいう合理化景気の時代)にNY市場で発行されたドル建て外債は、ドーズ公債とヤング公債の主幹事であったJPモルガンをはじめとして、諸邦債がブラウン・ブラザーズ・ハリマンやシティバンク、ゴールドマン・サックスやディロン・リードに発行されていた[6]。 以下は主として林健太郎の『ワイマル共和国』(中公新書、1963年)の記述に依っているが、この本は書かれた時代が古い。そのため、『ドイツ史』3(山川出版社、1993年)で指摘されているように[7]、現在では史実に関して部分的な訂正が必要である。 第一次世界大戦による市民生活の悪化は首都ベルリンにおけるドイツ社会民主党や独立社会民主党といった左派の影響力を拡大させた。1917年ごろからはストライキが頻繁に起こるようになり、1918年にベルリンで発生した大規模なストライキは参加者40万人にも及んだ[8]。さらに1918年3月の春季攻勢の失敗以降の戦線の崩壊は、政府関係者や軍部にも敗戦を覚悟させた。9月29日には参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルクと参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で休戦の受諾と、議会に立脚する新政府の成立を求めた書簡を提出した[9]。しかし多くの国民や前線の兵士は敗戦を考えていなかった[9]。その理由の1つは、長期にわたって戦線が膠着していたもののドイツの戦線後退が1918年の7月までなかったことがあげられる[10]。また、重要な別の原因は、軍部が情報統制を行って、戦争の先行きに悲観的な情報を国民に知らせないようにしていたことにもあった[9]。 この書簡を受けてゲオルク・フォン・ヘルトリング内閣は総辞職し、マクシミリアン・フォン・バーデンが新首相となった[11]。マクシミリアン内閣の閣僚は社会民主党、中央党、進歩人民党
沿革
革命詳細は「ドイツ革命」を参照
この頃から皇帝の退位を求める声が高まり始め、11月3日にはキールにおいて水兵が反乱を起こし、翌日、町はレーテ(労兵協議会)によって掌握された[13]。その後次々に各地に反乱が起き、11月7日にはミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位した[14]。社会民主党は皇帝の退位が無ければ事態が収拾できないと主張したため、11月9日にマクシミリアン首相が皇帝の退位を独断で宣言、首相の座を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに譲った[15]。エーベルトは穏健な立憲君主制政府を目指していたが、一方、かねてから戦争に反対していた独立社会民主党の急進的な2派、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクに率いられたスパルタクス団と、労働組合組織を基盤とする革命的オプロイテは革命を目指し、新政府の樹立を狙っていた[16]。同日午後2時ごろ、この動きを察知した社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマンは、議会前に集まった群衆に、独断で共和政の樹立を宣言した[17]。エーベルト首相は「何の権限があって共和政宣言をしたのか」とシャイデマンを叱責したが、すでに帝政復活を行える情勢ではなかった[18]。 ドイツの歴史
人民委員会会議
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国
共和政宣言後、社会民主党は独立社会民主党に対して政府構築への協力を求めた[19]。独立社会民主党の主導権を握ったリープクネヒトは社会主義共和国の成立とレーテによる三権掌握、ブルジョア分子の政府内からの排除などの6ケ条を主張したが、社会民主党は、国民議会による選挙が必要であること、レーテの全権掌握は独裁を意味し民主主義に反すること、緊急事態にある現在政府内からブルジョア分子をすべて排除することには反対であると回答した[19]。11月10日、独立民主党の穏健派は強硬派を除外した会議を開き、条件を撤回して政府参加を決めた[20]。この政府は人民委員会会議(ドイツ語版)という名称がつけられ[21]、議長は常にエーベルトが就任するなど社会民主党主導の政府となった[22]。一方でスパルタクス団とオプロイテは革命政権の樹立を目指し、活発に活動した。
この10日の深夜から、参謀次長ヴィルヘルム・グレーナーとエーベルトの間で頻繁に連絡が行われ始めた[23]。エーベルトは革命派を抑え、ドイツを安定化させるためには軍が必要であると考えており、グレーナーもまた新政府の安定化を望んでいた。二人の間には密約(ドイツ語版)が結ばれ、軍は新政府に協力することになった[23]。
11月11日、コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印された[24]。社会民主党は国民議会の選挙を求めたが、レーテ独裁による社会主義政権を狙うスパルタクス団とオプロイテはこれに反対した。急進二派はベルリンのレーテを掌握し、さらに全国のレーテに呼びかけて革命をもくろんだが、各地のレーテは反政府的な意図で蜂起したのではなく、厭戦感情に基づくものであった[25]。