ヴァイマル共和政
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1919年2月11日 - 1925年2月28日フリードリヒ・エーベルト
1925年5月12日 - 1934年8月2日パウル・フォン・ヒンデンブルク

首相
1919年2月13日 - 6月20日フィリップ・シャイデマン
1933年1月30日 - 1934年8月3日アドルフ・ヒトラー

面積
1925年468,787km²

人口
1925年62,411,000人

変遷
共和国宣言(帝政廃止)1918年11月9日
ヴァイマル憲法制定1919年8月11日
ヒトラー内閣成立1933年1月30日
全権委任法成立1933年3月23日
ヒトラーが総統に就任1934年8月3日

通貨パピエルマルク(1919年 - 1923年)
レンテンマルク(1923年 - 1924年)
ライヒスマルク(1924年 - 1933年)
時間帯UTC +1(DST: +1)

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ワイマール共和制下の自治体

ヴァイマル共和政(ヴァイマルきょうわせい、ドイツ語: Weimarer Republik)は、戦間期ドイツに存在した共和政体である。政治体制は1919年8月に制定・公布されたヴァイマル憲法に基づいている。ヴァイマル共和国、ワイマール共和政、ワイマール共和国、ドイツ共和国などとも称されるが、正式な国号はドイツ国ドイツ語: Deutsches Reich)である。
概要

ヴァイマル共和政下における正式な国号は、ドイツ社会民主党などが提案し、後に日本を始め他国の言語での翻訳でも実際に多く用いられた「ドイツ共和国(Deutsche Republik)」が1919年の国会で拒否されたため、帝政時代からの正式な国号である「ドイツ国(Deutsches Reich[2]、ドイチェス・ライヒ)」が引き続き用いられた[3]首都も帝政時代と同じくベルリンであり、ヴァイマルが首都であったわけではない。

憲法の社会政策と第一次世界大戦の賠償両面で財源を確保すべく、独占により産業合理化を推進した。合理化のため、アメリカイギリスフランスから巨額の短期資本を導入し、銀行は長期貸しを行った。世界恐慌が起こるや否や短資は流出してしまい、その支払のため発行された手形が再割引きに出された。こうしてライヒスバンクは、1930年から1932年にかけて、地金外貨準備の1/3を失った。失業者の数は1929年秋の約200万から翌年秋に倍の400万となり、1932年夏に600万となった。失業保険の過酷な受給要件が、1932年平均で受給者割合を2割に抑えた[4][5]

1924-1930年(この記事でいう合理化景気の時代)にNY市場で発行されたドル建て外債は、ドーズ公債ヤング公債の主幹事であったJPモルガンをはじめとして、諸邦債がブラウン・ブラザーズ・ハリマンシティバンクゴールドマン・サックスディロン・リードに発行されていた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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