ヴァイマル共和国
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その一方で社会民主党はナチスを警戒してブリューニングの政策を言わば黙認するようになった[149][注 9]。各州での選挙でもナチスが躍進し、民主主義体制は危機を迎えた。
ブリューニング内閣崩壊1932年4月10日、大統領選挙の投票を済ませて出るブリューニング(中央)

ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチスの躍進は、ドイツに対する諸外国の信用を一気に低下させた。このため海外資本の引き揚げはますます顕著となり、1930年末には失業者が400万人を超えた[151]。このような情勢下でブリューニングの増税政策はますます支持されなくなっていった。

ブリューニングは外交上の成果を上げるため、1931年3月23日、オーストリア関税同盟を結んだ(独墺関税同盟事件[152]。しかし、1922年にオーストリアが国際連盟の仲介による経済援助を各国から受けた際に、オーストリアの経済的独立を脅かすような取り決めを他の一国と結ぶことを禁ずる規定を含んだ条約を各国と結んでおり、それに抵触すると反発する国が現れた[152]。実際には、この関税同盟がオーストリアが結んだ条約の違反であると言い切れるわけではなかったが、オーストリアに融資する国としては最大だったフランスは大いに気分を害した[152]。フランスは、関税同盟についてドイツ・オーストリアに抗議、融資の引き揚げを恐れたオーストリアは関税同盟の破棄を考えざるを得なかった[153]。そして実際にフランスはオーストリアから資本を引き揚げたため、5月8日にはオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルト(ドイツ語版)が破綻した[153]。同銀行はヨーロッパ全土で取引をしていたため、この銀行破綻はドイツやオーストリアのみならず、ヨーロッパ全土の経済に打撃を与えた(世界恐慌[153]。賠償支払いはもはや不可能であり、アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは6月19日に西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言した(フーヴァーモラトリアム[154]。しかしこの発表によってもドイツ経済の悪化は止まらず、企業や銀行の破綻が相次いだ[155]。また関税同盟も9月に常設国際司法裁判所によって違法と判断されたため成立しなかった[153]

1931年10月3日、ユリウス・クルティウス(英語版)外相は独墺関税同盟の失敗により引責辞任、ルール工業界も国民党に対してブリューニング内閣の信任を撤回するよう圧力をかけ始め、内閣改造を大統領に要求する動きも出てきた[156]。ブリューニングは大統領に辞任を申し出たがヒンデンブルクは、保守色を強めるとの条件を付けて組閣をブリューニングに再委任、「議会と独立に」内閣を作る事も改めて指示し、大統領内閣としての性格が強まった[156][157]。10月10日、第2次ブリューニング内閣が成立した[156][注 10]。しかし、政権から国民党が離脱したので国会基盤は更に弱くなり、ブリューニングが首相と外相を、グレーナーが国防相と内相を兼務する厳しい組閣だった[156]。また実際に国会の支持が全く得られなく、内閣への信任票が125に対して、不信任が577票もあるという状態だった[158]。結果として、ブリューニング内閣は大統領の支持だけが頼りという隘路に入っていった。この頃から国会で議決されない大統領令による立法が増加し、1931年には大統領緊急令の数が国会採択の立法の数を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5となった[159]

10月11日、アルフレート・フーゲンベルクの主唱でドイツ国家人民党、ナチス、鉄兜団等右派による反ブリューニング戦線の決起集会が開かれた[160]。この時の極右団体による合同集会は後にハルツブルク戦線との名前で記憶されるようになる[160]。会場には旧帝国皇族、ゼークトシャハトらが集まり盛会となったが、このハルツブルク戦線はヒトラーが乗り気でなかったために実際の影響力は乏しいものであった[161]。ナチスは単独での政権掌握を狙っており、突撃隊も活発にテロ活動を行った。この後ブリューニングは経済の悪化を理由に再度の賠償問題解決のための交渉を行い、1932年1月にスイスローザンヌ会議を開く事が合意された[155]。しかし、英仏の都合で会議が半年延期されている間にブリューニングは失脚してしまいローザンヌ会議でドイツに有利な条件で賠償問題を解決する道は水泡に帰した[155]

1932年春には大統領の任期切れが迫っていた[162]。ヒンデンブルクは選挙戦を厭って信任投票による再選を願っていたが、結局選挙戦が行われる事になった(1932年ドイツ大統領選挙)。社会民主党は共和派の大統領候補としてヒンデンブルクを推すことに決定、一方、右翼のフーゲンベルクは鉄兜団副団長のデュースベルク(選挙戦の途中で離脱)を、共産党はエルンスト・テールマンを推した[163]。ヒトラーはドイツ国籍の問題から立候補に問題を抱えていたが、ヴィルヘルム・フリックの仲介によりブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在公使館付参事官になるという形式(公務員になった者にドイツ国籍を付与する)を取ってぎりぎりでドイツ国籍を取得し(ドイツ語版)、同じく大統領選に臨んだ[163][164]

3月13日に行われた一次投票でヒンデンブルクは最多得票を獲得したものの、わずか0.4%の不足で過半数には及ばなかった[165]。4月10日の二次投票で再選が確定したものの、2位となったヒトラーの影響力拡大は誰の眼にも明らかとなった[166]。この選挙戦はかつてヒンデンブルクを支持した右派がヒトラー支持に回り、ヴァイマル連合をはじめとする反ヒンデンブルク派だった政党がヒンデンブルクを支持するという、前回の大統領選挙と逆の構図となった[167]。この頃ヒンデンブルクはかなり老衰しており、側近(シュライヒャー、ハンマーシュタイン、官房長官オットー・マイスナー、農相オルゲンブルク=ヤヌシャウ(英語版)、息子のオスカー・フォン・ヒンデンブルクら)によって簡単に動かされるようになっていた[168][169]

4月13日、国防相兼内相となっていたヴィルヘルム・グレーナーは、突撃隊親衛隊の禁止命令を出した[170]。しかしナチスとの連携を模索するシュライヒャーの策動でグレーナーは失脚した[162]。国防相となったシュライヒャーはブリューニング内閣を倒して右派独裁による新政権樹立を目指し、さらに策動を開始した。突撃隊禁止命令の解除を材料としてヒトラーと交渉し、大統領にはブリューニング政権の進める東部救済政策がユンカーの抑圧であると吹き込んだ。5月29日には、ヒンデンブルク大統領がブリューニングに対して「右翼政府の形成」「労働組合指導者との接触の禁止」「農業ボルシェヴィズムの中止」を申し渡し、事実上の退陣を要求した[171]


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