ワールドアスレティックス
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IAAFは1988年より年間最優秀選手賞であるワールド・アスリート・オブ・ザ・イヤーの表彰を開始した。

マラソンハーフマラソン競歩の世界記録公認を2004年に開始し、オリンピックと世界選手権の実施種目全てが世界記録として公認されることになった[18]。世界新記録樹立者にはIAAFオフィシャルパートナーから賞金が授与される。

2019年11月11日を以てこれまでの国際陸上競技連盟からワールドアスレティックスに組織名を変更した[1][2]
アマチュアリズムの変遷

IAAFは古くからアマチュアリズムを掲げ、規約を設けて選手の金品獲得を制限しており違反者には資格剥奪処分が下された。ジム・ソープマイナーリーグの所属経験があったために資格剥奪処分を受け、さらにIOCによって金メダルが剥奪された。この規定のために選手は長きにわたって陸上競技選手として生計を立てられなかった[19]。1968年メキシコシティオリンピック男子100m金メダリストのジム・ハインズはオリンピック後にプロアメリカンフットボールのNFL選手へ転身している。しかし、1960年代から他のスポーツがアマチュア規定を次々に廃止し、時代の流れはIOCが1974年オリンピック憲章の参加規定を変更するまでに至った[20]。陸上競技も1970年代以降マラソン大会を中心にテレビ局やスポンサーから有力選手へ公然と出場料・賞金が支払われる状況になり[21]、競技と生活のために金銭を必要とする背景が選手にも存在した[19][22]1981年プリモ・ネビオロが会長に就任するとIAAFはアマチュアリズムと決別、放映権料とスポンサー料による商業化を推進し賞金レースの導入や出場料支払いを開始した[23]。IAAFは1982年の総会で選手が賞金と出場料を受け取ることを認めるルール改正を行い、以後は選手のプロ化が一気に進んだ[24]。IAAFは1991年にオフィシャルパートナー12社と締結したスポンサー契約が4年100億円、日本テレビに提供した世界選手権の日本国内向け放映権料はワールドアスレチックシリーズ数大会を含めても1年40億円に上るなど急激な商業化を推し進めた[25][26]。この時代にIAAFは地域開発センターを世界10都市に設置して、加盟団体の指導者育成・ジュニア選手養成を援助した[4]。世界選手権の成功が評価される一方で、バーリー時代のアマチュア路線から商業的な拡大路線への転換には批判的な意見も見られた[23][27]。IAAFは発足以来正式名称にAmateurの7文字を戴いていたが、2001年の総会において International Association of Athletics Federations へと改めた。
世界選手権とグランプリレースの創設第12回世界選手権は2009年8月にベルリンで開催された

IAAFは、真の陸上競技の世界王者を決定する世界最高峰の競技大会・世界陸上競技選手権大会を創設し、1983年に第1回ヘルシンキ大会を開催した[28]

それまで陸上競技最高峰の競技大会はオリンピックであったが[29]、人種問題や冷戦による政治的対立を孕んで選手団のボイコットが発生し、東西陣営の足並みは揃わず、世界王者決定戦としての機能を失っていた[30][31]

1990年代に入り賞金レースの拡充に伴い、非賞金レースは選手の出場辞退が増加した[32]。そんな状況下でも世界選手権は創設当時より賞金が授与されない大会であったために、1993年シュトゥットガルト大会の出場をめぐり、カール・ルイスヌールディン・モルセリらがIAAFに対して賞金を要求する事態が発生している[32]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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