1953年、ワーナー・シアター・ホールディングスはスタンレー・ワーナー・シアターズとして分離された。ワーナーの映画だけで年間上映スケジュールを埋める映画館網を失った以上、年に多数の映画製作は不要となり、高い契約キャストやスタッフを抱えることもできなくなった。創業50年目で撮影所システムの崩壊に直面し、バーバンクの広大な製作スタジオを、銀行を中心とした買手グループに売却した。
1956年、スタジオ売却取引が完了した直後、ハリー・ワーナーとアルバート・ワーナーは、銀行主導のグループの背後にいた投資家がワーナー四兄弟の末弟、ジャック・ワーナーだったことを知った。ファミリービジネスだった映画会社を自分ひとりの管理下に置いたジャックに対し兄弟は怒り、家族関係に亀裂が入り、以後生涯にわたりハリー、アルバート、ジャックは互いに口を利くことはなかった。同年、アニメも含む1948年以前の作品を配給会社アソシエーテッド・アーティスツ・プロダクションズ(a.a.p.)に売却する[注釈 7]。その後、『悪い種子(The Bad Seed)』『軍曹さんは暇がない(No Time for Sergeants)』『メイム叔母さん』『ジプシー(Gypsy: A Musical Fable)』など、ヒットした演劇やミュージカルの映画化に再び専念したほか、『サンセット77』『マーベリック』などのヒットドラマを放つテレビドラマ製作部門が成功したことで立ち直った。
1958年には音楽出版社ワーナー・ブラザース・レコードを立ち上げてこれも成功させたが、1960年代初頭には映画部門の不振は誰の目にも明らかだった。スタジオがプロデュースする映画はほんのわずかで、ほとんどは他社との共同出資(施設提供、資金出資、配給の実施)による映画やインディペンデント映画の配給などであった。
1967年、ジャック・ワーナーは老化と時代の流れに屈し、映画会社の経営と音楽ビジネスを7800万ドルでカナダ人投資家のエリオット・ハイマンとケネス・ハイマン兄弟に売却し、彼らが経営する独立プロダクション、セヴン・アーツ・プロダクションズ(Seven Arts Productions)と合併する。彼らは、1956年に作品の版権を買ったアソシエーテッド・アーティスツ・プロダクションズの当時の経営者であった。社名はこの後、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツに変わる。
スティーブ・ロスの時代1984年から2019年まで使用されたワーナー・ブラザースの企業ロゴ。
2年後の1969年、資金難のハイマン兄弟はスティーブ・ロス(Steve Ross)が率いる複合企業群「キニー・ナショナル・カンパニー(Kinney National Company)」の買収提案を受け容れた。
1940年代後半に設立されたキニー社は当初は悪名高きニューアークのキニー通りにある駐車場運営会社(創設者の1人がギャングのアブナー・ツヴィルマン)に過ぎなかったが、葬儀場会社により買収合併されて以降レンタカー、オフィス清掃、建設業、芸能エージェンシーと手を広げ巨大コングロマリットを形成、1962年に株式を一般に公開した。
1967年にロスはハリウッドの芸能エンジェシー大手だったアシュリー・フェイマス(Ashley-Famous)を買収した。ア社のテッド・アシュリーは芸能ビジネスよりケーブルテレビ事業が儲かると考え、映像事業へ転進するための資金力あるパートナーを探していた。アシュリーは資金難にあったワーナー・ブラザース=セブン・アーツを買収するアイデアをロスへ打診した。ワーナーはキ社に買収されて以降アシュリーが経営者となり、社名は再度ワーナー・ブラザース(Warner Bros. Pictures)に戻った。1972年にキ社は葬儀場や駐車場の分野を新会社としてスピンオフし、映像、音楽の娯楽産業を管轄するグループ本社は社名をワーナーにちなんでワーナー・コミュニケーションズに変更した。
ロスが来た時にワーナーは映画ではなく傘下のレコード会社が成長株とされていた。アーメット・アーティガンはロスに会い協力すると決めた。モー・オースティン(英語版)、ジャック・ホルツマン(英語版)、デビッド・ゲフィンがワーナーのトップだった。レーベルの買収などで悪評を残したがワーナーはCBSから首位を奪いとった。
斜陽の映画産業でワーナー・ブラザースは低予算で製作本数を減らした体制を選択。また集客力があるスタープロとの提携を進めた。クリント・イーストウッド、バーブラ・ストライサンドはその代表格。ユニバーサルの手中にあったスティーヴン・スピルバーグにも接近。MCAのルー・ワッサーマンと綱引きを演じた。映画産業ではいち早くケーブルテレビに着目しアメックスと合弁事業を展開、巨額な資金を投じた。
ロスはコングロマリットの総帥として映像、音楽業界に影響を及ぼした。ワーナー・コミュニケーションズがM&Aによりあらゆる分野に利権を持ち、買収を重ねた。ビデオゲーム会社アタリを、さらに遊園地経営会社シックスフラッグスを買収、アタリは傘下に入って以降、ワーナー・コミュニケーションズの利益のかなりの部分を占めるグループの稼ぎ頭になった。しかし、ゲーム市場の崩壊(日本で言ういわゆる「アタリショック」)が起こると、ワーナー・コミュニケーションズ自体の株価も低落した。
これにより1984年にはルパード・マードックがワーナー株を大量に買い、最終的にマードックの株をワーナーが引き取り決着するまで互いの攻防も世間を賑わせた。クリス・クラフト・インダストリーズと株式交換、マードックを退けたが、今度はワーナーの株25%を得てパートナーとなったハーバート・シーゲルとの仲が難しくなった。アメックスと合弁事業で出資していたMTVとショウタイムはロスの自慢だったが、シーゲルはこの金の卵をロスから手放せさせた(ちなみにこれらを買収したバイアコム帝国は躍進した)。