ワーナー・ブラザース
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概要

1923年ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟によって設立され、アメリカ映画産業のリーダーとしての地位を確立した後、アニメーションテレビ放送ビデオゲームなどに事業を拡大し、アメリカの主要映画スタジオ「ビッグ5」の1つであるとともに、モーション・ピクチャー・アソシエーション(MPA)のメンバーでもある。

ワーナー・ブラザース・ピクチャーズニュー・ライン・シネマワーナー・ブラザース・ピクチャーズ・アニメーションキャッスル・ロック・エンターテインメントDCスタジオを含む、映画スタジオ部門であるワーナー・ブラザース・モーション・ピクチャーズ・グループで知られている。その他の資産としては、テレビ番組制作会社のワーナー・ブラザース・テレビジョン・スタジオ、ビデオゲーム開発・出版部門のワーナー・ブラザース・ゲームス、放送テレビネットワークThe CWパラマウント・グローバルとの共同所有)の50%の権利などがありまある。また、出版マーチャンダイジング音楽演劇テーマパークなど、様々な部門を運営している。

日本法人ワーナー ブラザース ジャパン合同会社
年表

1923年 ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟によって設立される。

1927年 長編映画として世界初のトーキージャズ・シンガー』を発表し、公開する。

1930年代 経済恐慌のあおりを受けて経営難に陥るが、世相を受けたギャング映画のヒットで乗り切る。

1956年 1950年代以前の作品をアソシエイテッド・アーティスツ・プロダクション (a.a.p.) に売却する(カサブランカルーニー・テューンズ、等)。

1967年 独立プロダクション「セブン・アーツ」と合併する。

1969年 駐車場会社「キニー・ナショナル・サービス」の傘下となる。

1973年 スター・ウォーズシリーズの企画が提出されるも却下する。

1989年 親会社「ワーナー・コミュニケーションズ」(キニー・ナショナル・サービスより改称)が巨大出版社タイムと合併し、タイム・ワーナーが設立される。

1995年 1950年代以前のワーナー、1985年以前のメトロ・ゴールドウィン・メイヤーRKO、a.a.p.の主なフィルム・ライブラリーとCNNを所有していたターナー・コミュニケーションが会社の傘下に入る。

2000年 親会社タイム・ワーナーインターネットプロバイダー最大手のAOLに買収され、「AOLタイム・ワーナー」となる。

2002年ITバブル崩壊、新興勢力の拡大を受けAOLが業績不振となり、親会社内での影響力が衰退、社名が「タイム・ワーナー」に戻される。2009年12月、AOL部門は正式に分離される。

歴史
創業期ワーナー映画の予告編に登場するハリウッドのワーナースタジオ(1936年)

ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟はポーランドからの東欧系ユダヤ人移民労働者であった。19世紀末に両親とともにドイツハンブルクを経て、アメリカ大陸に渡りカナダオンタリオ州ロンドンに移住し、全部で8人の兄弟姉妹が貧困の中で父の経営する靴修理屋を手伝いながら生活していた。

兄弟はそれぞれの趣味と才能を伸ばし、長兄ハリーは店を拡大、ジャックは歌手として修行に励み、サムは職業を転々とするが、20世紀初頭の映画の創生時、ハリーはその魅力に取り憑かれて映写技師となった。彼は1903年に兄弟と興行会社を組み、ジャックのパフォーマンス付きで映画興行業を開始、オハイオ州ペンシルベニア州の鉱山町を巡業した。同年、ペンシルベニア州ニューキャッスルに劇場をオープン、その後1904年、ピッツバーグで配給会社を設立しエクスチェンジ業(→スタジオ・システム)に進出して収益を上げた。しかし1908年、発明王トーマス・エジソンが、映画配給を独占するトラスト「モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー」(別名エジソン・トラスト)を設立したことで映画館は大きな打撃を受ける。エジソンは、保有する多数の映画関係の特許をたてにし、トラスト参加各社の作る映画を上映する度に映画館から料金を徴収した。トラストの圧力によって多数の映画業者が配給網を絶たれ、ワーナー兄弟も一度は業界から手を引く。1922年のハリウッドのスタジオ群

しかし映画製作の夢を秘め続けたサムは、再び兄弟を説得して1918年にハリウッド映画スタジオを構え、ハリーたちはニューヨークで資金調達や配給を行った。1923年、ワーナー兄弟はワーナー・ブラザース・ピクチャーズを会社登記する。

映画製作の最初の一歩は、脚本家アヴェリー・ホップウッド(Avery Hopwood)の1919年のブロードウェイ演劇『ゴールド・ディガーズ(The Gold Diggers)』の権利購入であったが、会社成長のきっかけは第一次世界大戦後に、ある兵隊がフランスから連れ帰った一匹の犬、リン・チン・チン(英語版)であった。この犬を主人公にした映画「名犬リンチンチン」シリーズは1924年以降26本作られ、ハリウッド有数のスタジオへと押し上げた。

これらの成功によりウォール街からの投資を受けるようになり、1924年には同じユダヤ系資本ゴールドマン・サックスから巨額の融資を得た。この資金で、1897年以来の歴史を持つハリウッドの先発スタジオで全国規模の配給網も所有していたヴァイタグラフ(Vitagraph Company)を1925年に買収、さらにラジオ放送にも進出し、ロサンゼルスのKFWBをはじめ幾つかの都市に放送局を誕生させた。また映画業界を荒れ狂っていた劇場建設・買収の競争にも参入した。
トーキーとカラー映画の導入ジャズ・シンガー

ヴァイタグラフが進めていた音声と映像が同期したディスク式有声映画システム、ヴァイタフォンの開発を引き継ぐこととなり、1926年よりこのシステムを利用して音楽や効果音のある有声映画の製作を開始。1927年10月には、これをさらに進め、部分的にせりふのある世界初の長編映画である『ジャズ・シンガー』を配給した[注釈 1]。これがトーキー時代の幕開けであり、これはハリウッドにセンセーションを巻き起こす事象であったが、『ジャズ・シンガー』公開前にトーキー開発に熱心だったサム・ワーナーが死去、彼の葬儀のためワーナー兄弟は『ジャズ・シンガー』のプレミアに出席することはできなかった。

この映画の成功で得た資金により、大手配給会社スタンレーを1928年に買収し、スタンレーが3分の1を所有していたワーナーのライバルである大手映画製作・配給会社ファースト・ナショナル(First National Pictures)の買収に王手をかけた。


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