ワーナー・ブラザース
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この映画の成功で得た資金により、大手配給会社スタンレーを1928年に買収し、スタンレーが3分の1を所有していたワーナーのライバルである大手映画製作・配給会社ファースト・ナショナル(First National Pictures)の買収に王手をかけた。ウィリアム・フォックス率いるフォックス・フィルム20世紀フォックスの前身)との激しい買収合戦の末、1929年にファースト・ナショナルの経営権を得ることに成功したが、大恐慌が映画業界を直撃、ファースト・ナショナルと合併し、同社がバーバンクに所有していたスタジオに移転した。裁判所より合併を認められたが、1938年まで毎年何本かの映画をファースト・ナショナルの名義で製作・配給するよう要請され、その後30年間にわたり「ワーナー・ブラザース=ファースト・ナショナル(A Warner Bros. - First National Picture)」名義での製作が行われた。

1928年、世界初の初の全編音声付きトーキー長編映画『紐育の灯』を製作し成功を収めた[注釈 2]。1929年、テクニカラーを使用した『エロ大行進曲(On with the Show)』を製作、それまで二色式カラー映画や無声テクニカラー映画は発表されていたが、全編音声付・全編カラー映画はこれが最初だった。同年、同様のカラー映画『ブロードウェイの黄金時代(Gold Diggers of Broadway)』を製作し、この年一番の人気を博し、1939年まで各地の劇場で続映され続けるほどのヒットになった。これ以後、1931年までの間に数多くのカラー映画を製作したが、各地の観客がミュージカル映画に飽きてしまい[注釈 3]、各社がカラー映画の製作を行わなくなったため、ワーナーも多くのミュージカル映画の製作を中止し、すでに製作した映画をコメディとして宣伝するはめとなったが、テクニカラー社と、あと2本カラー映画を製作する契約が残ってしまっていたため、ミステリー映画初のカラー作品『ドクターX(Doctor X)』(1932年)と『肉の蝋人形(Mystery of the Wax Museum)』(1933年)が製作された。
ギャング映画とヘイズ・コードダリル・F・ザナック

『リン・チン・チン』シリーズ以来多くの脚本を手がけ、プロデュースも行っていたダリル・F・ザナックの下で、大不況の影響を受けていた1930年代は、ギャングの抗争を報じる新聞の見出しを切り抜いたような('torn from the headlines')ギャング映画で名をはせるようになった。1920年代の都会的で洗練されたスター達に代わり、ジェームズ・キャグニーエドワード・G・ロビンソンジョーン・ブロンデルなど、乱暴な語り口の労働者タイプのスターを多く起用し、リアルなギャング路線で成功をおさめる[注釈 4]

1933年にザナックの退社後[注釈 5]は洗練された路線に変更していく。女性向けメロドラマ剣戟映画、ベストセラーの映画化などを製作し、ケイ・フランシスベティ・デイヴィスエロール・フリンらを起用した。ヘイズ・コード適用以前もっとも成功していたスタジオのひとつだったが、検閲により受ける打撃を避けるために歴史映画や倫理的・理想的人物を描いた映画などに方向転換するが、コード強化以前のスターらは次第に出番が少なくなり、当時のワーナーらしさや輝きは薄らいでいった。
カートゥーン製作

映画タイトルやサイレント映画の字幕などの製作をパシフィック・アート・アンド・タイトル社(レオン・シュレジンガー(Leon Schlesinger)所有の独立スタジオ)でおこなっていたが、1930年より、ヒュー・ハーマン(Hugh Harman)とルドルフ・アイジング(Rudolf Ising)というディズニー出身の有能なアニメーターが、自身のアニメーション・スタジオを設立、シュレジンガーもそれに参加する形で、アニメーション(カートゥーン)映画製作に乗り出した。彼らはジャズを使って過激なギャグ(この後のヘイズ・コード適用後は不可能になった)を交え、黒人少年ボスコを主役にした『ルーニー・テューンズ』(Looney Tunes)、および『メリー・メロディーズ』(Merrie Melodies)などのヒットシリーズを作り上げた。1933年にハーマンとアイジングが製作環境や契約でもめてシュレジンガーのもとを去った後、シュレジンガーは自身のアニメーション・スタジオである、『レオン・シュレジンガー・プロダクション』を設立し、ジャック・キングやフリッツ・フレレング(Friz Freleng)らが白人少年バディを主役にカートゥーン映画を作り続けた。この会社はロサンゼルスのワーナー・スタジオ内に設立された為、実質ワーナーの系列会社であった。

やがて、漫画家志望の青年テックス・エイヴリーが加わりターマイト・テラス(Termite Terrace)という小さなスタジオをシュレジンガーから任されると、ターマイト・テラスは数々の過激なアニメーションを製作し、バッグス・バニーダフィー・ダックトゥイーティーなど現在知られる人気キャラクターが次々と生み出された。

1944年、シュレジンガーがプロデューサーを引退し、以後、バッグス・バニーやダフィー・ダックは当社のイメージキャラクターとなるに至っている。
黄金時代の終わりカサブランカ(1942年)

1940年代、ベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードらを起用した女性向け映画によって、娯楽が制限された第二次世界大戦下でも多くの観客を集めた。またハンフリー・ボガートがスターとなり、戦後はローレン・バコールドリス・デイらが新たなスターとなった。1948年1月5日、パサデナで1月1日に行われたローズボウルローズパレードの模様を伝えるニュース映画をカラーで提供し、これが最初のカラーでのニュース映画となった。


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