ワルシャワ
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毎年8月1日の午後5時、サイレンの音を合図にワルシャワ市内では人によりその場で直立不動となり1分間の黙祷を捧げるとされる。この1分間は全ワルシャワ市の部分的な機能が停止するともいわれる。これは1944年8月1日午後5時に開始されたワルシャワ蜂起での犠牲者を追悼する行事。この時刻およびその行事は、ワルシャワ(Warszawa)の頭文字をとって「時刻W」と呼ばれる。
歴史

ワルシャワについての最古の文書は13世紀1285年のものである。当時のワルシャワはマゾフシェ公爵領に属し、漁業を中心とする寒村であった。マゾフシェ公爵家の家系の断絶に伴い、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入された。1596年ジグムント3世の野心的な政策によってポーランド王宮廷は古都クラクフより移転し、ワルシャワは1611年に正式にポーランド(立憲君主制の多民族連邦国家ポーランド・リトアニア共和国)の首都となる。旧市街「白樺通り」から「新市街」(15世紀以前に開発された「旧市街」に対して15世紀に新たに開かれた歴史的市街地)の「聖カシミロ教会」方面

1795年の第三次ポーランド分割プロイセン領に組み込まれた。1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンが、ティルジット条約によってワルシャワ公国を建てるが、ナポレオン失脚にともなうウィーン会議で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国(ポーランド立憲王国)とすることが確認され、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につくことになった。

独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となくポーランド国家(ポーランド・リトアニア共和国)再興運動の中心地となった。1830年、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。

ポーランドを占領していたドイツ、オーストリアは第一次世界大戦で敗戦国となった。また、第一次世界大戦中に社会主義革命が起こったロシアでは、ソヴィエト政権が成立していた。パリ講和会議において、ポーランドの独立が承認され、ワルシャワは独立を回復させた。ポーランド・リトアニア共和国の継承国家として1918年にポーランドが独立を取り戻したのち、ワルシャワは再びポーランドの首都と定められた。

1939年9月1日ナチス・ドイツポーランド侵攻を開始、たちまちワルシャワはドイツ軍の電撃戦に晒され機械化部隊による攻撃や空襲を許した。9月16日にはドイツ軍特使がワルシャワ防衛軍司令官にあてに降伏勧告を出すが、司令官は拒否。市内にドイツ空軍により避難などを呼びかけるビラがまかれた後、翌9月17日未明から総攻撃が始まった[4]。同日にはソビエト連邦によるポーランド侵攻も始まる。ソビエトのモロトフ外相はポーランド侵攻の正当性をラジオ放送を通じて訴え、「ワルシャワは、もはやポーランドの首都ではなくなった」と宣言している[5]

その後、ワルシャワはドイツ軍により陥落。1939年10月5日にはアドルフ・ヒトラーによるワルシャワ入城式が行われた[6]。首都の施政権は失ったもののポーランド政府は降伏せずポーランド亡命政府としてパリ次いでロンドンに拠点を置き抵抗運動を開始。いっぽうワルシャワ市内居住のユダヤ人はドイツによってワルシャワ・ゲットーユダヤ人居住区)へ集められ、1942年の移送と1943年4月19日親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー解体で、国内の絶滅収容所に送られた(ワルシャワ・ゲットー蜂起)。

1944年8月1日ソ連軍がワルシャワに迫り、市民に対してドイツ軍への蜂起を呼び掛ける放送が行われた。呼応したワルシャワ市民がワルシャワ蜂起を起こすが、ソ連軍は補給不足のため進撃を停止した。ドイツ軍はソ連軍の救援が無いのを見越して、反撃に転じた。結局、63日の戦闘の末、蜂起は鎮圧された。

1945年1月、ソ連軍が進撃を再開し、ヴィスワ=オーデル攻勢によりドイツ軍を排除した。その後44年にわたりポーランドはソ連の衛星国家とされ、ポーランド人民共和国が成立し、ワルシャワはその首都となった。ポーランド・リトアニア共和国を継承するポーランド亡命政府はロンドンに避難した。1989年9月7日ポーランドが法的に民主化ポーランド共和国となり、ワルシャワはその首都となった(民主的なポーランド国会選挙は同年12月25日に復活した)。第二次世界大戦末期の戦闘で瓦礫の山と化したワルシャワ中心部.ヨハネ・パウロ2世が1979年に母国ポーランドのワルシャワを訪れ独立自主管理労働組合「連帯」を支援するミサを行った.

現在ワルシャワ北部にある「旧市街」(Stare Miasto、1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)とその北隣りの「新市街」(Nowe Miasto、1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、第二次大戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたものである。この旧市街(Stare Miasto)、新市街(Nowe Miasto)、クラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmie?cie)、新世界通り(Nowy ?wiat)、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は1980年ユネスコ世界遺産に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)もユネスコ記憶遺産に登録された[7]マリエンシュタット地区(王宮そばにある、ヴィスワ川を利用した交易に従事したユダヤ人商人が多く住んだ街)
第二次世界大戦で破壊されたが、戦後にワルシャワ市民がボランティアで修復した
ワルシャワの起源に関する伝説

ワルシャワの起源に関する伝説[注釈 1]。昔々、ヴィスワ川のほとりに小さな家があった。そこにはヴァルスとサヴァが住んでいた。ヴァルスは漁師であって、サヴァはヴァルスの妻である。あるとき、この近隣の地域を支配していたジェモメスゥ公(シェモメスゥ公とも)が狩に出かけた。獲物を追っているうちに、家来たちから離れ、森の中で迷ってしまった。夕暮れちかくになっても帰り道が見つからず、そのうちにヴィスワ川のほとりに行き着き、ヴァルスとサヴァの住む家を見つけた。夜に森を一人で歩くのは危険であるので、公はヴァルスとサヴァの家のドアをたたき、泊めてもらえるように頼んだ。ヴァルスとサヴァは見知らぬ客人を暖かく迎え、食事とベッドを用意した。このもてなしに公は大変感謝した。翌朝、公は、貧しい漁師夫婦に礼を言い、つづけて「見知らぬ人物を嫌がりもせず家に招きいれ、空腹、寒さ、野獣から救ってくれた。あなた方の親切がいつまでも忘れられることのないように、この地は今後いつまでもヴァルスの(ヴァルショヴァ Warszowa)土地である」

ただし、古代スラブ語においてサヴァは男性の名前であった事実は、議論の元になっている(現代ポーランド語では「a」で終わる名前は女性の名前である)。
人口構成

1897年のロシアによる統計調査では市内の人口は638,000人で、そのうちユダヤ人が219,000人(34%)であった。第二次世界大戦前にはユダヤ人の数は35万人を越え、市民の3人に1人はユダヤ人であった。
2010年の国内ユダヤ人在住者数は3,200人となる[8]

多くのワルシャワ市民は第二次大戦で亡くなった。キリスト教系市民はナチス・ドイツが行った数々のポーランド社会破壊作戦で、ユダヤ教系市民はホロコーストなどで殺害された。


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