ワルシャワにはヴィスワ川の中流、マゾフシェ地方に位置し、市内をヴィスワ川が貫流する。第2次世界大戦後、戦火で荒廃した旧市街を「煉瓦のヒビに至るまで」復元して往時の町並みを回復した。1980年、ユネスコに「ワルシャワ歴史地区」として世界遺産に登録された。
、自動車産業などの工業都市であり、ワルシャワ大学を初めとするポーランド有数の高等教育機関が集中し、歌劇場やワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団を擁する首都。毎年8月1日の午後5時、サイレンの音を合図にワルシャワ市内では人によりその場で直立不動となり1分間の黙祷を捧げるとされる。この1分間は全ワルシャワ市の部分的な機能が停止するともいわれる。これは1944年8月1日午後5時に開始されたワルシャワ蜂起での犠牲者を追悼する行事。この時刻およびその行事は、ワルシャワ(Warszawa)の頭文字をとって「時刻W」と呼ばれる。 ワルシャワについての最古の文書は13世紀、1285年のものである。当時のワルシャワはマゾフシェ公爵領に属し、漁業を中心とする寒村であった。マゾフシェ公爵家の家系の断絶に伴い、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入された。1596年、ジグムント3世の野心的な政策によってポーランド王宮廷は古都クラクフより移転し、ワルシャワは1611年に正式にポーランド(立憲君主制の多民族連邦国家ポーランド・リトアニア共和国)の首都となる。旧市街「白樺通り」から「新市街」(15世紀以前に開発された「旧市街」に対して15世紀に新たに開かれた歴史的市街地)の「聖カシミロ教会」方面 1795年の第三次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれた。1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンが、ティルジット条約によってワルシャワ公国を建てるが、ナポレオン失脚にともなうウィーン会議で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国(ポーランド立憲王国)とすることが確認され、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につくことになった。 独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となくポーランド国家(ポーランド・リトアニア共和国)再興運動の中心地となった。1830年、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。 ポーランドを占領していたドイツ、オーストリアは第一次世界大戦で敗戦国となった。また、第一次世界大戦中に社会主義革命が起こったロシアでは、ソヴィエト政権が成立していた。パリ講和会議において、ポーランドの独立が承認され、ワルシャワは独立を回復させた。ポーランド・リトアニア共和国の継承国家として1918年にポーランドが独立を取り戻したのち、ワルシャワは再びポーランドの首都と定められた。 1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランド侵攻を開始、たちまちワルシャワはドイツ軍の電撃戦に晒され機械化部隊による攻撃や空襲を許した。9月16日にはドイツ軍特使がワルシャワ防衛軍司令官にあてに降伏勧告を出すが、司令官は拒否。市内にドイツ空軍により避難などを呼びかけるビラがまかれた後、翌9月17日未明から総攻撃が始まった[4]。
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