一方、旧王宮は戦後も爆破後の廃墟のままの姿であったが、旧王宮の復興を許可すれば、ポーランドには過去に社会主義でない歴史が長くあったことを伝える証拠となってしまうというポーランド統一労働者党(PZPR)政権の方針によって、1971年まで復興が差し止められていた[1]。そして、旧王宮の再建が開始されたことによって、ワルシャワの戦いの最中に隠されていた美術品や装飾が再び配置され、1970年代半ばより国立博物館の一部や祭典会場として使われるようになった。パノラマ: ワルシャワ旧市街のマーケット・プレイス 世界遺産登録の際、破壊からの「復元文化財」は登録に値しないという理由から登録が危ぶまれたが、世界遺産登録の中心となったワルシャワ工科大学教授ヤン・ザフファトヴィッチ
世界遺産登録基準からの翻訳、引用である)。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
特記事項
この結果、「ワルシャワ旧市街」は「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価された最初の世界遺産となった(世界遺産登録への経緯は2007年4月28日放映のNHK総合テレビ『探検ロマン世界遺産』「よみがえる街 未来への懸け橋?ポーランド・ワルシャワ?」で紹介された)[1]。
関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ワルシャワ歴史地区に関連するメディアがあります。
ワルシャワ新市街
スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ:ポーランド王国最後の王。彼が残した風景画が再建に利用された。
ヤン・ザフファトヴィッチ(英語版):ポーランドの建築家・ワルシャワ工科大学教授。1953年から始まる旧市街修復事業の陣頭指揮をとった。
ユネスコ記憶遺産「ワルシャワ再建局の文書」[3]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 磯野鱧男 (2007年5月17日). ⇒“よみがえる街 未来への懸け橋 ポーランド・ワルシャワ”. ⇒http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/497f709989421cc2af8ba231b7ae257f 2016年10月10日閲覧。
^ ⇒激動の歴史と不屈の魂
^ ⇒ユネスコ記憶遺産
外部リンク
⇒Page about Mazovian Region for foreign investors
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ヴィエリチカとボフニャの王立岩塩坑群
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ザモシチ旧市街