ワルシャワの戦い_(1656年)
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戦争の目標が大いに異なっていたため、カール10世とフリードリヒ・ヴィルヘルムはワルシャワで凱旋行進を挙行した後、ほどなくして別れる。カール10世はヴィスワ川の下流で再編されたポーランド軍と戦うべくダンツィヒへ向かい、フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセン公領の東方国境を来襲したリトアニア及びタタール騎兵から守らなくてはならなかったのである[3]

ヤン2世はこの敗北により1657年ヴェーラウ条約で、対スウェーデン同盟の締結と引き換えにプロイセン公領の宗主権をやむなくブランデンブルクへ委譲した。
プロイセンの主権確立までの流れ

1656年1月17日:
ケーニヒスベルク条約 (1656年)

1656年6月23日:マリーエンブルク条約

1656年6月28日-6月30日:ワルシャワの戦い

1656年11月20日:ラビアウ条約

1657年9月19日:ヴェーラウ条約

1657年11月6日:ブロンベルク条約

1660年5月3日:オリヴァ条約

文献

ヨハン・グスタフ・ドロイゼン: Die Schlacht von Warschau 1656. Verlag S. Hirzel, Leipzig 1865 ( ⇒デジタル版)

クルト・ヤニー(ドイツ語版): Geschichte der Preusischen Armee ? Vom 15. Jahrhundert bis 1914, 1. Band, Biblio Verlag, Osnabruck 1967, p. 120?130

August Riese: Die dreitagige Schlacht bei Warschau 28., 29. und 30. Juli 1656: Die Wiege preussischer Kraft und preussischer Siege. Verleger Malzer, Breslau 1870.

脚注^ a b Gloger, Bruno: Friedrich Wilhelm. Kurfurst von Brandenburg Berlin: Neues Leben, 1986, p. 130.
^ クルト・ヤニー(ドイツ語版): Geschichte der Preusischen Armee ? Vom 15. Jahrhundert bis 1914, 1. Band, Biblio Verlag, Osnabruck 1967, p. 130
^ Gloger, Bruno: Friedrich Wilhelm. Kurfurst von Brandenburg Berlin: Neues Leben, 1986, p. 133.

関連項目

プロイセンが関わった戦争と戦闘の一覧
(英語版)

外部リンク

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戦闘の解説(英語)

典拠管理データベース: 国立図書館

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