ワリード1世
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このワリードによる支援は「アミールのアル=ワリード、信徒の長の息子」と刻まれている碑文の存在によって裏付けられている[10]。歴史家のジェレ・L・バカラク(英語版)によれば、ワリードは自身の活動拠点があったカルヤタイン(英語版)とカスル・ブルクの間に、恐らくベドウィンの夏季の野営地としてジャバル・サイス(英語版)を建設した[11]。バカラクは、第二次内乱中にワリードがアラブ部族の領地内に位置するこの野営地をウマイヤ朝にとって極めて重要であったアラブ諸部族の忠誠を再確認するために利用したと推測している[12]
治世

アブドゥルマリクはその治世の終わり頃にイラク総督のハッジャージュの支持を得てアブドゥルマリクの弟でエジプト総督のアブドゥルアズィーズ(英語版)を後継者とするマルワーン1世が定めた継承に関する取り決めを破棄し、ワリードを後継者に指名しようとした[13][14][注 2]。アブドゥルアズィーズは後継者の座から降りることを拒否したが、705年5月に死去したことでワリードを後継者とする最も大きな障害が取り除かれた。そして705年10月9日にアブドゥルマリクが死去するとワリードがカリフの地位を継承した[3][13][15]。9世紀の歴史家のヤアクービーは、ワリードについて、「背が高く浅黒い肌で… 団子鼻であり… ひげの先端がわずかに灰色がかっていた」と身体的な特徴を説明している。また、「文法的に不正確な話し方をしていた」と述べている[16]。この点で父親を失望させていたワリードはクルアーンに記されている古典アラビア語を話すことを断念したが、仲間内では誰もがクルアーンの知識を持つべきだと主張していた[17]

ワリードは父親の中央集権化政策と拡大政策を基本的に引き継いだ[3][18]。しかし、アブドゥルマリクとは異なり、統治の遂行をハッジャージュに極めて大きく依存し、ウマイヤ朝の支配領域の東半分をハッジャージュの好きなように統治させた。さらにハッジャージュはワリードの内政の意思決定に強い影響力を及ぼし、しばしばハッジャージュの勧めによって役人が任命されたり解任されたりした[14]
領土の拡大ウマイヤ朝の領土の拡大を表した地図。マグリブ西部、ヒスパニアシンドホラズムトハーリスターン、およびフェルガナを含むマー・ワラー・アンナフル(薄緑の部分)は、すべてワリードの治世に征服された。

東西の辺境におけるイスラーム教徒の征服活動は国内の敵対勢力を制圧したアブドゥルマリクの下で再開されていた[19]。歴史家のユリウス・ヴェルハウゼンは、ワリードの下でウマイヤ朝の軍隊が「新たな刺激を受け」、「偉大な征服の時代」が始まったと述べている[20]。そしてワリードの治世の後半にウマイヤ朝の版図は最大に達した[21]
東方地域詳細は「イスラーム教徒のマー・ワラー・アンナフル征服(英語版)」および「ウマイヤ朝のシンド征服(英語版)」を参照

東方辺境における領土の拡大はイラク総督のハッジャージュの監督下で進んだ。ハッジャージュの副総督でホラーサーンを治めていたクタイバ・ブン・ムスリムは、初期のイスラーム教徒の軍隊にとってほとんど手付かずの土地であったマー・ワラー・アンナフル中央アジア)で705年から715年にかけていくつかの軍事作戦を展開した。その結果、705年にバルフ、706年から709年の間にブハラ、711年から712年の間にホラズムサマルカンド、そして713年にフェルガナが降伏した[3][22]。クタイバは主に現地の支配者たちとの間で貢納関係を結ぶことによってウマイヤ朝の宗主権を確保したが、これらの支配者の権力はそのまま維持された[21]。しかし、反乱を起こしたクタイバが715年に殺害され、クタイバの軍隊が解散させられると、マー・ワラー・アンナフルにおけるアラブ軍の立場は弱まり、ウマイヤ朝は720年代初頭までにクタイバが獲得した領土のほとんどを現地の諸侯と突騎施の遊牧民に奪われた[23]。その一方で708年か709年以降に遠征を開始したハッジャージュの甥のムハンマド・ブン・アル=カーシム(英語版)が711年から712年にかけて南アジア北西部のシンド地方を征服した[14][21][24]
西方地域詳細は「イスラーム教徒のヒスパニア征服(英語版)」を参照

西方ではイフリーキヤ北アフリカ中央部)の総督でアブドゥルマリクの治世からその地位にあったムーサー・ブン・ヌサイル(英語版)がベルベル人の部族であるハッワーラ族(英語版)、ゼナータ族(英語版)、およびクターマ族を服属させ、マグリブ西部に進出した[25]。708年か709年には今日のモロッコのそれぞれ北と南に位置するタンジェとスース(英語版)を征服した[25][26]。711年にはムーサーのベルベル人のマウラー(解放奴隷もしくは庇護民を指し、複数形ではマワーリーと呼ばれる)であるターリク・ブン・ズィヤードヒスパニアイベリア半島)の西ゴート王国へ侵攻し、翌年にはムーサーがヒスパニアに増援部隊を派遣した[25]。そしてワリードの死の翌年である716年までにウマイヤ朝はヒスパニアの大部分を征服した[21]。マー・ワラー・アンナフル、シンド、およびヒスパニアの征服によってもたらされた莫大な戦利品は、第2代正統カリフウマル(在位:634年 - 644年)の治世中にイスラーム教徒の征服によってもたらされた戦利品に匹敵するものだった[27]
ビザンツ帝国方面708年頃にウマイヤ朝が占領したテュアナに残る水道橋

ワリードは異母弟のマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)をジャズィーラメソポタミア北部)の総督に任命し、ビザンツ帝国に対する戦線の指揮を委ねた。マスラマは辺境地帯で強力な権力基盤を確立したが、ワリードの治世中にウマイヤ朝がビザンツ帝国方面で獲得した領土はわずかなものに留まった[3]。708年頃には長い包囲戦の末にビザンツ帝国のテュアナの要塞を占領して破壊した[注 3]。ワリードは年1回もしくは年2回行われたビザンツ帝国に対する軍事作戦を指揮することはなかったが、マスラマとともに行動した長男のアル=アッバース(英語版)は戦いで高い評判を得た。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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