ワシントンD.C.
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ほとんどの政府の建物は速やかに修復されたが、議事堂は大規模な建設工事が行われ、1868年になって初めて完成を見た[15]

1830年代、特別区の南にあるアレクサンドリア郡は、より内陸に位置しチェサピーク・オハイオ運河に面したジョージタウン港との厳しい競争などにより経済的に落ち込んでいた[16]。当時、アレクサンドリアは奴隷貿易の主要な市場であったが、奴隷廃止論者が首都における奴隷制を終わらせようとしているとの噂が流れた[17]。富をもたらす奴隷貿易ができなくなることを避ける目的もあって、1846年、アレクサンドリアのバージニア州への返還の可否について住民投票が行われ、可決された。同年7月9日、連邦議会は、特別区のうちポトマック川より南の領域(約100km2)をバージニア州に返還することに同意した[16]。この土地は現在はアーリントン郡に属し、アレクサンドリア市の一部をなす。この結果、ワシントンD.C.は頂点を北に向けた正方形のうち、南西部の川に区切られた区画を除いた形をなすことになった。なお、その4年後、1850年協定により、特別区内における奴隷貿易(奴隷制そのものではない)が禁止された[18]

ワシントンは、1861年の南北戦争勃発までは小さな町であった。南北戦争によって合衆国政府は大きく膨張し、それにより町の人口も著しく増大した。解放奴隷の大量の流入もこれに寄与した[19]。1870年までに、特別区の人口は、13万2000人近くにまで増えた[20]。しかし町の成長にもかかわらず、ワシントンの道路は未舗装であり、基本的な衛生設備もないなど、条件が非常に悪かったため、首都を別の場所に移転することを提案する連邦議会の議員もいた[21]1963年のワシントン大行進リンカーン記念館リフレクティング・プールを囲む群衆

1871年のコロンビア特別区基本法 (District of Columbia Organic Act of 1871) により、連邦議会は特別区全体の新しい政府を創設し、ワシントン市、ジョージタウン市及びワシントン郡を一つの自治体に統合した[22]。これをもって現在のワシントンD.C.が形作られ、この町が「ワシントン」と「コロンビア特別区」の両方の名前で知られているのはこのためである。同じ法律の中で、連邦議会は公共事業委員会を設立し、町の近代化に当たらせた[23]。1873年、ユリシーズ・グラント大統領は、同委員会の最も有力なメンバーであるアレクサンダー・シェパードを新たに設置された知事職に任命した。その年、シェパードは2000万ドルを公共事業に費やし(2007年は3億5700万ドル)[24]、ワシントンの近代化を行ったが、同時に財政を破綻させることにもなった。1874年、連邦議会はシェパードの知事職を廃止して直接統治を選んだ[21]。更なる町の改修作業は、1901年に行われたマクミラン・プラン (McMillan Plan) を待たなければならなかった[25]

特別区の人口は、しばらくの間比較的安定していたが、1930年代の世界恐慌ではフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策立法により、ワシントンの官僚が増加した。第二次世界大戦で政府の活動は更に増大し、首都における政府職員の数も増加した[26]。1950年までに、特別区の人口は80万2178人というピークに達した[27]

1961年、アメリカ合衆国憲法修正第23条[28]により、ワシントンD.C.市民に初めて大統領選挙の選挙権が与えられた。コロンビア特別区全体に対して、人口の最も少ない州に与えられる、選挙人3人の定数が確保された。

公民権運動の指導者キング牧師が1968年4月4日に暗殺された後、特別区(主に北西地区のUストリート、14番ストリート、7番ストリート)で暴動が発生した。暴動は3日間続き、1万3000人以上の連邦軍とコロンビア特別区州兵がようやく鎮圧に成功した。多くの店やその他の建物が焼かれ、多くが1990年代後半に再建されるまで荒廃したままであった[29]

1973年、連邦議会はコロンビア特別区地方自治法 (Home Rule Act) を制定し、特別区に公選制の市長議会を導入することとした[30]1974年、市長の公選が行われ、1975年、行政委員会委員長であった民主党のウォルター・ワシントン (Walter Washington) が特別区初めての公選の市長、かつ特別区初めての黒人の市長となった[31]

1979年、マリオン・バリー (Marion Barry) が市長に選ばれ、4年間の任期を3期連続で務めた。しかし麻薬の使用が噂され、3期目の任期半ばの1991年にはFBIのおとり捜査によりクラック・コカイン所持使用で現行犯逮捕され、公判で禁錮6か月の実刑判決を受けた。この不祥事でバリーは次の選挙には出馬しなかった[32]

1991年、次に市長となったシャロン・プラット・ケリー (Sharon Pratt Kelly) は、アメリカの大都市で初めて市長になった黒人女性である[33]。1994年、ケリーの任期が満了すると、バリーが市長に返り咲いた[32]。1998年、エール大学卒の弁護士、アンソニー・ウィリアムス (Anthony Williams) が市長に選ばれて2期務め、2007年1月から2011年1月までアドリアン・フェンティ (Adrian Fenty) が、2011年1月から2015年1月までビンセント・グレー (Vincent C. Gray) が市長を務めている[34]。2015年1月、ミューリエル・バウザー(Muriel Bowser)が第8代のワシントンD.C.政府の市長に就任し現在に至っている[35]

1995年までに、市は債務超過のため支払不能になりかけていた[32]。これを受けて、連邦議会はコロンビア特別区財政管理委員会を設立し、市のすべての支出を監督させることとした[36]。特別区は、2001年9月に財政管理権限を回復し、同委員会の活動は中止された[37]

2001年9月11日、テロリストがアメリカン航空77便をハイジャックし、ワシントンD.C.郊外のバージニア州アーリントンにある国防総省ペンタゴン)に航空機を突入させた。ユナイテッド航空93便もホワイトハウスまたは連邦議会議事堂のいずれかを標的としていたが、同機はペンシルベニア州シャンクスヴィル近くで墜落した[38][39]。ペンタゴンへの攻撃が行われた場所には、2008年9月11日、ペンタゴン記念館がオープンした[40]。「アメリカ同時多発テロ事件」を参照
地理
市域ワシントンD.C.の航空写真。市街東部から西南西方向を望む。写真中央が連邦議会議事堂、左下が連邦最高裁判所。右上の細長い白い塔はワシントン記念塔ホワイトハウスはその右手に位置するが写っていない。議事堂から右斜め上方へ延びる舗装道路(ペンシルベニア大通り)の先にある。また、議事堂から記念塔を経てポトマック川に至る細長い緑地はナショナル・モールと呼ばれる。ペンタゴンは写真左上の川向こうに写っている。

ワシントンD.C.は、全部で68.3平方マイル (177 km2) の市域を有し、そのうち61.4平方マイル (159 km2) が陸地、6.9平方マイル (18 km2, 10.16%) が水面である[41]。特別区は、当初100平方マイル (260 km2) の面積を有していたが、1846年に南の一部をバージニア州に返還したため、この面積となっている。現在の市域は、メリーランド州から割譲された領域のみから成っている[42]。そのため、ワシントンD.C.は南東・北東・北西をメリーランド州に、南西をバージニア州に囲まれている。特別区内には、三つの大きな天然の河川がある。ポトマック川、アナコスティア川、ロック・クリークである。アナコスティア川とロック・クリークはポトマック川の支流である[43]。北西部のポトマック川河畔にはダンバートン・オークスが位置する。


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