ワシントン・ポスト
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現在は、メリーランド州(アナポリスモンゴメリー郡プリンスジョージズ郡、メリーランド州南部)とバージニア州(アレクサンドリアフェアファックスラウドン郡リッチモンドプリンスウィリアム郡)に支局を置いている[24]

新聞発行部数公査機構(英語版)(ABC)によると、2013年5月現在の平日の平均発行部数は474,767部で、『USAトゥデイ』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』、『ニューヨーク・タイムズ』、『ロサンゼルス・タイムズ』、『デイリーニューズ』、『ニューヨーク・ポスト』に次ぐ全米第7位の発行部数である。ほとんどの新聞同様、発行部数は減少しつつあるが、大都市圏の日刊紙の中では市場浸透率(英語版)が最も高い。

ポスト紙は何十年もの間、ワシントンD.C北西地区15番通り1150番地にメインオフィスを構えていた。この土地は、2013年にジェフ・ベゾスのナッシュ・ホールディングスに売却された後も、グラハム・ホールディングス(旧ワシントン・ポスト・カンパニー)が保有していた。グラハム・ホールディングスは、2013年11月にこの土地を近隣の土地と共に1億5900万ドルで売却した。ポスト紙は引き続きこの土地を借りていた[25]。2014年5月、ポスト紙は、ワシントンD.C.北西地区K通り1301番地にある高層ビル、ワン・フランクリン・スクエア(英語版)の西塔を借り、2015年12月14日に新しいオフィスに移転した[26]
歴史
創刊と初期1948年当時の社屋

1877年にスティルソン・ハッチンス(英語版)(1838-1912)によって創刊された。1880年には日曜版を加え、ワシントンD.C.で初の週7日発行の新聞となった[27]『ワシントン・ポスト・アンド・ユニオン』の題字

1878年4月、ポスト紙は創刊4か月目で、ジョン・リンチが1877年末に創刊した競合紙『ワシントン・ユニオン』を買収した。買収した時点でユニオン紙は創刊から約6か月しか経っていなかった。統合後の4月15日からは題名を『ワシントン・ポスト・アンド・ユニオン』とし、発行部数は13,000部だった[28][29]。『ポスト・アンド・ユニオン』の名前は4月29日まで約2週間使用され、4月30日からは元の『ワシントン・ポスト』に戻った[30]

1889年、ハッチンスはポスト紙を元郵便局長のフランク・ハットン(英語版)とオハイオ州の元民主党下院議員のベライア・ウィルキンス(英語版)に売却した。新オーナーは、当時アメリカ海兵隊軍楽隊のリーダーだったジョン・フィリップ・スーザに、新聞社の作文コンテストの授賞式で使う行進曲の作曲を依頼した。こうして作曲されたのが『ワシントン・ポスト』であり[31]、19世紀末のダンスブーム(dance craze)の際に流行したダンス「ツーステップ」の定番音楽となり[32]、スーザの代表作の一つとなっている。

1893年、本社をワシントンD.C.北西地区の14番通りとE通りの角に移転し、1950年まで使用した。このビルでは、取材、広告、植字、印刷といった新聞社の機能を1つの本部にまとめ、24時間体制で運営していた[33]『ミシシッピで一線を画する』(Drawing the Line in Mississippi) クリフォード・K・ベリーマン(英語版)画

米西戦争中の1898年、ポスト紙はクリフォード・K・ベリーマン(英語版)の風刺漫画『メイン号を忘れるな』(Remember the Maine) を掲載した。この題名は、米西戦争中のアメリカ人水兵が士気を高めるための合言葉となった。1902年、ポスト紙にベリーマンの風刺漫画『ミシシッピで一線を画する』(Drawing the Line in Mississippi) が掲載された。これは、狩猟に出かけたセオドア・ルーズベルト大統領が、傷を負った子熊を仕留めず助けてやった様子を描いたもので、ニューヨークの店主モリス・ミットム(英語版)がテディベアを作るきっかけとなった[34]

1894年、ハットンの死去に伴い、ウィルキンスがハットンの持ち分を取得した。1903年のウィルキンスの死後、その息子のジョンとロバートが2年間経営した後、1905年に『シンシナティ・エンクワイアラー(英語版)』紙のオーナーのジョン・R・マクレーン(英語版)に売却した。ウッドロウ・ウィルソン大統領時代に、ポスト紙はワシントンの歴史の中で「最も有名な新聞の誤植」を犯した。ウィルソン大統領が後妻のガルト夫人を「楽しませていた」(entertaining)と書くべきところを、ガルト夫人に「入っていた」(entering)と書いてしまった[35][36][37]

1916年にジョン・マクレーンは亡くなったが、彼は遺言で新聞社を信託した。プレイボーイとして知られる息子エドワード・"ネッド"・マクレーン(英語版)が遺産を管理できるとは思えなかったからである。ネッドは裁判を起こして信託を破棄し、経営権を獲得したが、ネッドの下で新聞社の経営は傾いていった。ネッドは新聞社の利益を搾取して贅沢な生活をし、自身の政治主張のために新聞を利用した[38]。最終的に、ポスト紙を発行するワシントン・ポスト・カンパニーは、世界恐慌中の1933年に破産し、競売にかけられた。

1919年に全米各地で起きた人種暴動事件「赤い夏」において、ポスト紙は白人の暴徒を支持し、白人の軍人が黒人のワシントン市民への攻撃を実行するための集会の場所を一面に掲載したこともあった[39]
メイヤー=グラハム時代

1929年、金融家のユージン・メイヤーは、秘密裏に500万ドルでポスト紙の買収を提案したが、ネッド・マクレーンに断られた[40][41]。1933年6月1日、メイヤーは連邦準備制度理事会 (FRB) 議長を退任した3週間後に、競売にかけられていたワシントン・ポスト・カンパニーを82万5千ドルで落札した。匿名で入札していたメイヤーは、他の入札者よりもはるかに高い200万ドルを入札のために用意していた[42][43]。他の入札者の中には「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストもいた。ハーストは以前から、自身が経営するワシントンの新聞社を有利にするために、経営不振のポスト紙を買収して廃刊にしようと目論んでいた[44]

その後、メイヤーはポスト社の健全性と評判を回復させ、ハーストの新聞社にも勝利した。ハーストが保有していた『ワシントン・タイムズ[注釈 1]と『ワシントン・ヘラルド』は、1939年に合併して『ワシントン・タイムズ=ヘラルド』となった後、1954年にポスト社に買収され、ポスト紙に吸収された[45]。合併後、題字には『ワシントン・ポスト・アンド・タイムズ=ヘラルド』(The Washington Post and Times-Herald) と書かれていたが、段々「アンド・タイムズ=ヘラルド」の表記が小さくなり、1973年には消滅した。この合併により、ポスト紙の競合紙は『ワシントン・スター』と『ワシントン・デイリー・ニュース(英語版)』の2紙のみとなり、両者は1972年に合併して『ワシントン・スター・ニュース』になった[46][47]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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