ローリング・ストーンズ
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その際に巻き起こした騒動で、サリヴァンは以降彼らの出演を禁止した[62]が、後に再び出演している[18]。アメリカでのセカンドアルバム『12×5』はこのツアーの間に発売されている[63]。本作もファーストアルバム同様に大半の曲がカバーであったが、自作曲も増加した。

イギリスでの5枚目のシングル、ウィリー・ディクスンのカバー「リトル・レッド・ルースター」は1964年11月に発売され、全英チャートにおける2枚目の1位獲得作品となる。これはブルース曲として初の1位であった。アメリカでの配給会社であるロンドン・レコードは「リトル・レッド・ルースター」のシングル発売を拒否した。ロンドンは1964年12月にジャガー・リチャーズの自作曲「ハート・オブ・ストーン c/w ホワット・ア・シェイム」を発売した。「ハート・オブ・ストーン」はアメリカで19位となった[64]
1965?1969

セカンドアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ No.2』は1965年1月に発売されチャート1位に到達、そのアメリカ盤は2月に『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』として発売され、チャート5位につけた。アルバムはシカゴのチェス・スタジオおよびロサンゼルスのRCAスタジオで録音された[65]。1965年の1月から2月にかけてバンドはオーストラリアニュージーランドで34回の公演を行い、10万人を動員した[66]

ジャガー=リチャード名義で作曲した曲で(当時、キース・リチャーズはファミリー・ネームをリチャードと名乗っていたが1970年代後半にリチャーズに戻した)、最初にイギリスのシングルチャート1位になったのは「ラスト・タイム」(1965年2月)であり、同曲はアメリカでは9位であった。リチャーズは後にこの曲を「ストーンズにとって作曲について考える橋渡しとなった曲だ。それは俺たちに信用のレベルを与え、どのようにやっていくかの小道となった。」との認識を語った[67]。バンドにとっての初の世界的ナンバー1ヒットとなる「サティスファクション」は1965年5月、3回目の北米ツアーの間に録音された。ファズで歪ませた特徴的なギターリフで始まり、リチャーズはホーンセクションをガイドにしようと思い描いた。オールダムは意見を異にし、ホーンをオーバーダブせずに「サティスファクション」を発売した。「サティスファクション」は1965年6月にアメリカで発売され、全米で4週連続1位となる。以後、この名義によって何曲もの大ヒット曲を生んでいる[67][68]

アメリカ版『アウト・オブ・アワ・ヘッズ』(1965年7月)もチャート1位に到達する。同作には7曲の自作曲(ジャガー・リチャーズ名義が3曲、ナンカー・フェルジ名義が4曲)収録された[69]。「一人ぼっちの世界 (Get Off of My Cloud)」は1965年秋に発売され[18]、続いてアメリカで『ディッセンバーズ・チルドレン』が発売された[63]1965年北米ツアーの広告写真

1966年4月(アメリカ盤は6月)に発売された『アフターマス』(イギリス1位;アメリカ2位)は、ストーンズが全曲を自作した初のアルバムであった。このアルバムでジョーンズはギターとハーモニカばかりでなく多くの貢献を果たした。中東からの影響を色濃くした「黒くぬれ! (Paint It, Black)」ではシタールを演奏し、バラードの「レディ・ジェーン」ではダルシマーを演奏した。また、「アンダー・マイ・サム」ではマリンバを演奏した。そして、12分にも及ぶ「ゴーイン・ホーム」はトップセラーのロックアルバムに収録された初のジャムセッションとして注目された。

ストーンズのイギリスおよびアメリカにおけるシングルチャートでの成功は1966年に絶頂に達した。「19回目の神経衰弱(19th Nervous Breakdown)」(1966年2月、イギリス2位;アメリカ2位)の後には最初の英米ナンバー1の「黒くぬれ!」が続いた。「マザーズ・リトル・ヘルパー」(1966年6月)はアメリカでのみシングル発売され、8位となった。同曲は麻薬乱用問題に言及した初のポップソングの一つであった。この曲でジャガーは通常使うアメリカ南部の方言よりも自身の自然なロンドン訛りで歌っている。

1966年9月の「マザー・イン・シャドウ(Have You Seen Your Mother, Baby, Standing in the Shadow?)」(イギリス5位;アメリカ9位)はいくつかの点で注目に値した。ストーンズの曲で初めてブラスセクションを取り入れたアルバムで、ジャケット裏の写真は女装したメンバーの物であった。また、ピーター・ホワイトヘッドによって初のプロモーションフィルムが作られた。

1967年1月、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』(イギリス3位;アメリカ2位)が発売される。本作はオールダムがプロデューサーとして関わった最後のアルバムであった(バンドマネージャーとしての役割は1965年にアラン・クレインが継承した)。アメリカ盤には両A面シングルの「夜をぶっとばせ(Let's Spend the Night Together) c/w ルビー・チューズデイ」が収録されていた。


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