ローリング・ストーンズ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン(英語版)」の到来の有力な側面と記した[26]

ビートルズの広報担当者であったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが、彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントの資格を取得するのが不可能であった。従って、彼の母が息子に代わって署名し、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた[27][28][29][30]。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった[31]。オールダムはバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変え、リチャーズの姓もポップに見せるためにリチャードと変えさせた[32][33]。スチュワートはオールダムの構想に合わず、1963年5月にメンバーから除外されてロードマネージャーに転向した。スチュワートは1985年に死去するまで、主にスタジオでピアニストを担当した[34][35]

彼らは新しい演奏、作曲と録音に関する主導権、マスターテープの所有権に対する報酬として当時の水準に対して3倍の額を得ることができた[36][37]。またデッカとの契約において、オールダムはデッカのスタジオに代わるリージェント・サウンド・スタジオの使用を認めさせた。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられた都合の良いスタジオであった[38][39][40]。録音経験は殆ど無かったがストーンズのプロデューサーとなったオールダムは、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った[37][41]。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたって録音や練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された[42][43]

オールダムはストーンズが独立スタジオを使用していることを音楽雑誌に宣伝し、EMIに管理されたビートルズよりも「独立」した存在であることを強調した。オールダムは「普通の人たち...スタジオでは男たちのために汗をかく」と語っている[44]。オールダムはイギリスのファーストアルバムでは微笑まないメンバーの写真を使い、「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」[45]という挑発的な見出しを載せ、ビートルズの不快な対照としてバンドを宣伝し始めた。オールダムはメンバーに揃いのスーツを購入したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装で現れるようになった[46]。ワイマンによれば、「俺たちの評判とイメージが悪ガキだってのは後からやってきた。それは完全に偶然で、アンドリューが仕込んだ物じゃない。彼は単にそれを徹底的に利用しただけさ」と語っている[47]

デビューシングルチャック・ベリーのカバーである「カム・オン」は1963年6月7日に発売された。ストーンズが同曲をの演奏を拒否したため[48]、デッカは宣伝の広告看板を1枚だけ買い上げた。オールダムの指示でファンクラブの会員がシングルを購入したことで[49]、「カム・オン」はイギリスのシングルチャートで21位に上昇した[50]。シングルがチャートに到達したことでロンドンの外で演奏する機会を得たバンドは、7月13日にミドルズブラのアウトルック・クラブでホリーズと共演することとなる[51]。その年の後半にオールダムとイーストンは、ボ・ディドリーリトル・リチャードエヴァリー・ブラザースといったアメリカのミュージシャン達と共演する初の全英ツアーを計画した。この1963年秋のツアーは経験の少ないバンドにとってステージの「トレーニンググラウンド」となった[37][52][53]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:336 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef