ローリング・ストーンズ
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バンドの名前を尋ねられたジョーンズは、床に置かれたマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」からザ・ローリン・ストーンズと名乗った[20][21][22]
1962?1964

1962年7月12日、マーキー・クラブ(英語版)にて「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin' Stones」として最初のギグを行った[23]。編成はジャガー、リチャーズ、ジョーンズ、ピアノにスチュアート、ベースにテイラー、ドラマーはミック・エイヴォリー(後にキンクスに加入)であった。ジョーンズとスチュアートはシカゴ・ブルースを演奏したがったが、ジャガーとリチャーズが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの演奏にも同意した[24]。ビル・ワイマンが1962年12月に、チャーリー・ワッツが翌月の1963年1月に説得されて加入したことでバンドのリズム体が確定した[16][25]。ワイマンがメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という冗談交じりの他メンバーの回想もあった。当時のマネージャーであったジョルジオ・ゴメルスキー(英語版)は、クロウダディ・クラブに日曜日の午後の出番を固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルースの国際的なルネッサンス」の引き金となったと語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン(英語版)」の到来の有力な側面と記した[26]

ビートルズの広報担当者であったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが、彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントの資格を取得するのが不可能であった。従って、彼の母が息子に代わって署名し、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた[27][28][29][30]。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった[31]。オールダムはバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変え、リチャーズの姓もポップに見せるためにリチャードと変えさせた[32][33]。スチュワートはオールダムの構想に合わず、1963年5月にメンバーから除外されてロードマネージャーに転向した。スチュワートは1985年に死去するまで、主にスタジオでピアニストを担当した[34][35]

彼らは新しい演奏、作曲と録音に関する主導権、マスターテープの所有権に対する報酬として当時の水準に対して3倍の額を得ることができた[36][37]。またデッカとの契約において、オールダムはデッカのスタジオに代わるリージェント・サウンド・スタジオの使用を認めさせた。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられた都合の良いスタジオであった[38][39][40]。録音経験は殆ど無かったがストーンズのプロデューサーとなったオールダムは、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った[37][41]。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたって録音や練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された[42][43]

オールダムはストーンズが独立スタジオを使用していることを音楽雑誌に宣伝し、EMIに管理されたビートルズよりも「独立」した存在であることを強調した。オールダムは「普通の人たち...スタジオでは男たちのために汗をかく」と語っている[44]。オールダムはイギリスのファーストアルバムでは微笑まないメンバーの写真を使い、「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」[45]という挑発的な見出しを載せ、ビートルズの不快な対照としてバンドを宣伝し始めた。オールダムはメンバーに揃いのスーツを購入したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装で現れるようになった[46]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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