ローリング・ストーンズ(英語: The Rolling Stones)は、イギリスのロックバンド。1962年4月のロンドンで、ブライアン・ジョーンズ[9]、イアン・スチュワート、ミック・ジャガー、キース・リチャーズによって結成、その後間もなくビル・ワイマンとチャーリー・ワッツが参加した。
1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で活躍を続ける、ロック界の最高峰に君臨するバンドである。エアロスミス、プライマル・スクリームやジェット、日本では沢田研二とザ・タイガース、萩原健一[10]とザ・テンプターズ[11]など多くのグループ・サウンズのバンド、忌野清志郎とRCサクセション、鮎川誠とシーナ&ロケット、THE STREET SLIDERSなど、ローリング・ストーンズに影響を受けたアーティストは数多く存在する。ストーンズは労働者バンドというイメージが強いが、ミック・ジャガーとブライアン・ジョーンズは中流階級の出身である[9]。
結成当初のリーダーはジョーンズであったが、後にジャガーとリチャーズが共にで作詞作曲を担い、グループを主導するようになった。1969年、ジョーンズは体調不良と薬物中毒の悪化のためバンドを脱退。その3週間後に自宅のプールで溺死した。ジョーンズの後任としてミック・テイラーが加入、1974年に脱退するまで活動を続けた。その後、ロン・ウッドが加入する。1993年にバンドを脱退したワイマンに代わり、後任のダリル・ジョーンズがベースを担当するようになるが、正式メンバーとしては加入していない。スチュワートは1963年に公式メンバーから除外されるが、バンドのロードマネージャーを続け、1985年に死去するまでピアニストとしてツアーや録音に参加した。1982年以降は、チャック・リーヴェルがバンドのキーボードを担当している。
ストーンズは当初ヨーロッパでの人気を集め、間もなくブリティッシュ・インヴェイジョンの一波として北米での成功を収めた。イギリスでは22作のスタジオアルバム(アメリカでは24作)、11枚のライブアルバム(アメリカでは12作)、多くのコンピレーションを発売し、現在までの全世界での売上は2億枚を超える[12]。『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)はその後アメリカで8連続1位に到達するアルバム群の最初の1枚であった。最新作の『ハックニー・ダイアモンズ』は2023年に発売された。1989年にロックの殿堂入りした。
ストーンズの出現は、最初のアーバンブルースの世界的な人気の高まりの象徴の一つであった。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズのRollin' Stoneにちなんで、当時リーダーであったジョーンズが命名した[13]。ストーンズの活動継続と関連に関して評論家のロバート・パーマーは、彼らは「より短命なポップ・ファッションが現れたり消えたりしている」間、「リズム・アンド・ブルースとソウル・ミュージックの中で伝統的な真実に根ざしている」ことによると語っている[14]。
ローリング・ストーン誌の「最も偉大なアーティスト100」にて4位、ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて5位。 1950年代初めに知り合ったキース・リチャーズとミック・ジャガーは幼なじみであり、双方の一家が引っ越すまでダートフォード
歴史
初期
スチュワートとジョーンズが参加したバンドはシカゴ・ブルースを演奏するようになった。名前のないバンドは、ジャガー、ジョーンズ、スチュワートに加え、ジャガーが強要して加えたリチャーズと共に最初の練習を行った。リハーサルには、ギタリストのジェフ・ブラッドフォードとヴォーカリストのブライアン・ナイトも参加したが、2人はジャガーとリチャーズが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーのカバーに異論を述べ、バンドへの加入を拒否した[19]。1962年6月の編成はジャガー、ジョーンズ、リチャーズ、スチュワート、テイラー、及びドラマーのトニー・チャップマンであった。ジャガー曰く、ジョーンズが「ジャズ・ニュース」紙との電話の間にバンド名を決定したという。バンドの名前を尋ねられたジョーンズは、床に置かれたマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」からザ・ローリン・ストーンズと名乗った[20][21][22]。 1962年7月12日、マーキー・クラブ
1962?1964