ローマ
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これら土木・建築様式はエトルリアギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる[12]

王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である[13]

共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる[14]。紀元前312年からはローマ街道の敷設が[15]、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった[16]
ローマ帝国フォロ・ロマーノは、古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。

ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した[17]。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた[18]

そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオ石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され[19]、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった[20]。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している[20]。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスが拠点をニコメディアに移すまで続いた。

286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人ヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、476年に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケル東ゴート王の支配下に入った。

6世紀中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の東ローマ皇帝は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。

しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス2世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族ピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。
文化の中心地

この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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